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『異端の鳥』 - paint or aware -
先週、映画『異端の鳥』(原題"The painted bird")を観に行った。
上映時間が3時間という長さだからではなく、3時間を超える映画なんて別に珍しいものでもなく、長さにではなく、疲れ果てた。目に残る残像と頭の中を渦巻く言語になる前の感情のイメージその大きさ、口の中いっぱいに泥を詰め込まれそれを必死で吐き出しているような感覚とともに私は帰路に着いた。
一週間が経った。ようやく泥は言語になってここに書けるような気がする。
以下、ネタバレがあります。
『異端の鳥』はホロコーストを逃れ、一人疎開したユダヤ人の少年が長い長い旅路を彷徨い、訪れる先々で数限りない暴力に晒されながらも成長し、生き延びる物語だ。
映画は明確に章立てされていて、それぞれの章には名前がついている。章が変わるたびに少年は場所を変え、転々と、渡り歩く。
私は最初、この章の名前を「地名」だと思って観ていた。章が変わるたびに少年は新しい家や村へと行き着くからである。「その地で起こったこと」として、地名がついた章が立てられているのだと思っていた。
けれどそれは思い違いで、ラストシーンを観てようやく、この章の名前たちは「人の名前」だったことに気づいたのだった。つまり「その地で起こったこと」ではなくて、「そこで関わった人との間に起こったこと」でこの映画は章立てが為されているのだった。
その人の名前がついた章というのは、「その人の人生と生活」を指していて、それは「その人」が主体となる、主人公となる物語だ。そして、「その人」というのはほぼ必ず少年に暴力を振るう。章を支配する「その人」たちは、常に暴力とともにある。
なぜか。それは少年とその人を並べた時、その人が必ず強者の立場に立つからだ。
私は15歳の時チェコの映画学校に通い始めましたが、そこは全寮制で生徒はみんな一緒に暮らしていました。そこでは年上の生徒が私たち年下の生徒を残酷にいじめていました。身体的な暴力でした。その時に初めて人間の悪さを知り、人は人に何をすることができるのかを学びました。年下の人や弱い人をいじめる人がいて、心の底から喜んでやっている。彼らは悪であることを楽しんでいるのです。
少年は常に誰かの人生の客であり、異物である。その人、その人、その人の人生の途中を流れ着いて、彷徨い歩き、あらゆる形の暴力に触れる。少年は常に最弱者の位置から逃げることができない。
もうひとつ注目しておきたいのは、この映画で、誰一人として彼に名前を訊かないということだ。彼は映画に登場した瞬間から自分の名前を剥奪されている。この世のほとんど全ての人間が「名付けられて」存在している世界において少年が名前を持たない、誰からも名前を必要とされないのは、この映画において、少年が人間ではない(人間として扱われていない)ことを示しているに他ならない。
そもそも、思ったことがある。この映画には文脈があるようで無いのだ。
映画を観ていて、周囲の反応から少年がどうやらユダヤ人で、ホロコーストから逃れるために一人で疎開させられたらしい、ということはなんとなく分かるものの、それは本当にそうであるのか説明されることはない。私たちはただひたすらに、一人の少年が「異物」「弱者」「はけ口」として他者に利用され搾取され暴力を振るわれる日々の記録を観ている。となると、少年がユダヤ人であること、ホロコーストから逃れてきたこと、ということに、本質的な意味は存在しない。彼の生い立ちは、彼が受ける暴力の理由にはなっていないのだ。
私にとって『異端の鳥』はホロコースト映画ではないし、第二次世界大戦を扱った映画でもありません。確かに主人公はユダヤ人の少年ですが、私にとって『異端の鳥』は時代を超越した原理原則の映画です。『異端の鳥』には1羽の鳥に色を塗って空に戻すとその鳥の群れに殺されるという象徴的なシーンがあります。それは肌の色だけではなくどんな理由であれ少数派は多数派に攻撃されるという暗喩です。
事実、この映画において、少年の与り知らぬところでおそらくドイツは降伏し、戦争は終わっている(これはラストシーンで少年の父親が収容所からの生還者であることが示されることからも分かる)にも関わらず、物語は続くのだ。
また、暴力は、少年だけに向けられるものではない。ある場所では村の息子をそそのかしたはぐれ者の女が村の女たちの逆鱗に触れ、集団で返り討ちにされてしまうし、ある場所では妻との浮気が疑われた使用人が夫に両目を抉られる。収容所へと向かう列車から脱走した人々はドイツ兵に撃ち殺される。誰もが暴力の標的になり得るし、誰にとっても暴力だけは例外ではないのだ。
この映画の章には「人の名前」がついていると最初に書いた。そして最後の章の名前は「少年の名前」である。
その人の名前がついた章というのは、「その人の人生と生活」を指していて、それは「その人」が主体となる、主人公となる物語だ。つまり最終章でようやく、ここから少年自身が主人公、彼が所有する人生、物語が始まっていく。
とするとこの映画は、人間ではなかった(人間と見なされなかった)彼が、自らの名前を認識して「人間になる」までの物語と表すことができる。
主人公の少年はある意味で同じ運命をたどった何千何万もの名前のない子供たちの苦境を表しています。彼の名前は、彼が再び自分の居場所を見つけ、人間性を取り戻し、傷ついた魂の闇から光に戻ることができるのではないかという希望を象徴的に表現しています。
希望。監督は語った。
けれどそれは安直に「希望」と表していいものだろうか。
少年が名前を得る、認識するまでに、彼はあまねく暴力の雨を受け、あらゆる暴力を目の当たりにし、時には自らも暴力に手を染め、そしてそのバスに乗っている。少年が名前を得るためには、暴力に次ぐ暴力から生き延びる必要があった。そして初めて、ようやく、彼は自分の人生を手に入れる。
世界の暗部に触れなければ、人は人になれないのだろうか。
あるいはもっと深くまで、喉から泥を掻き出すように問う。私たちは何を以って「人間」になり、私たちを「人間」たらしめているのは何なのか。
人は世界から暗部に「染められて」いくことで人になるのか。
人は内に秘めた自らの暴力性を「発見」し、理解することで人になるのか。
そんな、人が人になる仕組みをも、手垢まみれになって使い古された性善説か性悪説の二元論をも、この『異端の鳥』を観て、私は考えずにはいられないのだった。
ピースサインするんだね。
ここで引用した監督インタビューは、全てこの透明ランナーさんの記事に基づいています。この記事を読んで予習し、鑑賞後も考えをまとめるために何度も読み返しました。いつもお世話になってます、いつも最高品質の記事をありがとう、これからもどうぞよろしく!
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