【創作小説】飢餓不死鳥喰 第三夜
五、ふたりの奥方
黒王の後宮には千人を超える女性が暮らし、彼の妻は皆、世界中から選り抜かれた美姫ばかりであった。彼女のたちのうちのあるものは、この北の大地では考えられぬ程褐色の滑らかな肌をしていたし、ある者は瞳が湖水のように深い紫紺であった。またある者は、女性として比類なく美しい曲線を有し、ある者は妖精のようにほっそりとなよやかであった。彼女たちの誰もが、故郷や祖国の美の粋をを極めた美しさを有し、そして皆それを誇りにしながら、それぞれが慈愛を持って黒王に接し、仕えていた。そんな美しさや艶やかさを競い合う美姫の中にあって、とりわけ身分の高く、麗しく賢いがために黒王の寵愛を受ける妻がふたりあり、彼女たちは宮中において、それぞれ朱金の奥方、白銀の奥方と呼ばれ敬われていた。
彼女たちは北の黒王から与えられる寵に報い、心より深く彼を慕い、常日頃から心を尽して彼に仕えていたが、そんな彼女たちであればこそ、黒王が南方より届けられた鳥に魅了され耽溺し、周囲の言葉に少しも耳を貸さなくなっていることに、少なからず憂いを感じて心を痛めるのも当然だった。
彼女たちはいずれも黒王を鳥から引き離し、以前の様な賢君に立ち戻ってもらいたいと思案に暮れる日々を過ごしていた。しかし当の黒王は寵姫たちの言葉にも耳を貸さず、相変わらず鳥と過ごすことのみを好んだ。
彼の姿を見て、白銀の奥方は憎々しげにこう呟く。
白銀の奥方「なんと忌々しい鳥め。禽獣の分際で、我から王の心を奪っていきよるわ」
唇の端を血が滲む程噛み締めながら、彼女は鳥を呪った。
一方で朱金の奥方もまた、黒王と彼の鳥を見て呟いた。
朱金の奥方「ああ、あれはなんと美しい鳥。あれはもしや不死鳥」
彼女は西方の奥地より輿入れした姫君であった。彼女がまだほんの幼い頃、彼女は世界が西方の女帝の掌中にあった時の伝説を聞いていた。それはとても古いお伽話で、南方の多島海域の中には淡く虹色の光彩を放つ美しい鳥が棲息しており、それをひと目見た女帝がその鳥のあまりの美しさに鳥を根絶やしにするという物語だった。
黒王のふたりの奥方は、それぞれ異なりながらも焦れる思いを抱えながら、しかしどうすることもできずにただ黒王を見守った。
六、鳥と黒王
鳥が黒王の下へ連れてこられて、一体どれほどの月日が経ったことだろうか。籠の中で美しい鳥は、静かに苦しんでいた。鳥は既に短くはない月日をこの宮殿の中で過ごしており、その間ただの一度も食事を摂らずに、日ごとに弱っていた。
尚且つ、鳥は交配期に入っており、このところ自らにも制御できぬ身体の疼きを抱えていた。しかしながら、この弱り果てた動くこともままならぬ身体では、どうすることも出来ぬ上、今の鳥にはつがいとなる同族を望むべくもなく、美しい鳥は鳥籠の中でもう幾日も幾日も、自らを苦しめるこの本能を持て余し続けていた。
そんな鳥の苦悩を、果たして黒王が知る由もない。
このところ黒王は、人払いし私室にて鳥籠の格子を開けては、手を差し入れ鳥に触れるだけでは物足らなくなり、しばしば鳥を抱えて籠の外へ出していた。
外に出ても鳥は籠の中にいるのと同様、ほとんど身じろぎすることも羽ばたくこともさえずることもなく、ただ置物の様にじっと動かず、黒王のするがままに身を任せていた。
その日も黒王は美しい鳥を籠から出すと、大切に抱えて自分の膝の上に乗せた。彼は長い間静かに美しい鳥の羽を、慈しみの気持ちを込めて撫でていたが、しばらくの後、そっと鳥を抱き上げると、自らの腕に優しく力を込めて抱きしめた。
王はひと言も口をきかず、美しい鳥もまた嘴を閉じて、見えない瞳を、羽ばたかない翼を、そのすべてを微動だにせず黒王に身を委ねていた。
だが鳥は感じていた。
はっきりと雄の匂いがした。
七、鳥の血
白銀の奥方は遂に行動を起こした。
鳥に魅了され、公務を抛りだし、それを嘲笑する人々の噂さえも意に介さない黒王の行動に、胸を痛めた末の決断であった。
彼女の見たところ、この数日間で王の鳥への執着はいっそう激しさを増し、わずかの間でも鳥籠が手の届かぬところにあれば半狂乱の様相を呈し、そのくせ鳥籠には覆いの布をかけて、決して鳥を他の者の目に触れさせようとはせずに、臣下たちを不審がらせた。
更に王は、自分から鳥を奪う者が現れはしないかとと、際限なく側仕えの者を疑い始め、王の私室に立ち入りを許されている侍女や従者が、無自覚にも鳥籠に近づく様なことがあると激昂し、言い訳する間も与えずに、直ちに彼らを処刑台へと送った。
初めの頃は嘲笑や蔑みの視線を向けられるばかりだった『鳥狂いの王』は、今は恐怖の体現となり、臣下たちの心を凍りつかせ、そうして宮中は次第に重苦しい不穏な気配に包まれ始めた。
黒王を想う白銀の奥方は、このような事態をどうしても見過ごすことが出来ずに、彼女は恐怖に震える王の護衛や侍従と内密裏に話をつけると、ある晩自ら胸元に懐剣を忍ばせて王の寝室へそっと忍び込んだ。そして王の眠る寝台の脇に置かれた鳥籠の格子を開けると、彼女は躊躇うことなく鳥の首を掻き切った。
その瞬間、鳥は耳が割れんばかりの鋭い声で悲鳴を上げた。
切り口からは真っ赤な血が噴き出して、鳥籠と王の寝台の回りを紅く染めた。
凄まじい鳴き声に黒王は目を覚まし、首の傷から血を流す鳥を持って呆然と佇む白銀の奥方の姿を間近に見た。
こうして、美しい鳥は死んだ。
八、白銀の奥方
鳥を殺された王の怒りは激しく、凄まじかった。これほどまでに怒れる彼の姿を今まで誰も目にしたことがなく、都ひとつ滅ぼしかねない彼の憤り方に、彼の臣下は皆戦慄した。ただひとり、白銀の奥方を除いては。
彼女は狂わんばかりに怒りを露わにした王の前にあって、微塵も取り乱さず毅然としていた。彼女はもとより覚悟を決めていた。自らの行為と、その代償として彼女自身に降りかかる行く末を。
北の王「白銀の奥方を車折の刑に処せ! あれは妖婦だ! 悪しき女だ! 余の妻などではなく醜く浅ましい悪党である! これ以降二度と我が治世にこのような悪党が現れぬよう、四肢を馬に繋ぎ都中を引きずり回すのだ! この女には死んだ方が良いと思えるまでの苦しみを与えてから殺すのだ!」
白銀の奥方「お言葉ですが我が君、我が君こそすでに私のお慕い遊ばした我が君では御座いません。卑しい禽めに溺れ、我を忘れ民を忘れ国を忘れ、禽にうつつを抜かす呆けた今の黒王が、私の行いにより目を覚まし、再びかつての賢君に立ち戻られるのなら、私はどんな刑も甘んじて受け入れましょう」
奥方のこの言葉はますますもって黒王の怒りを煽り立て、彼の命により、ろくな詮議も行われぬまま、異例の早さで白銀の奥方は刑に課せられることとなったが、刑の執行を前に、奥方は自ら毒をあおり自害し果てた。
けれどその骸を、かつての寵姫の無惨な姿を前にして尚、黒王の怒りは収まらず、それがために白銀の奥方の亡骸は、高貴な者を葬る儀式に則って丁重に埋葬されることを許されず、彼女の侍女たちが悲しみにむせび泣く声も届かない近海の浜に、着の身着のまま打ち捨てられた。
九 、王の悲嘆
黒王は悲嘆に暮れていた。
自害し果てた妻への怒りよりも、美しい鳥を失ったことがなにより王には堪えた。
黒王は自らの手で鳥の亡骸を洗い清め、首の掻き傷の跡には丁寧に真綿を押し当て、傷が目立たぬ様に美しい布を選ぶとそこに巻き付け、頭部から目玉のくり抜かれた眼窩にかけては再び、あの南方の刺繍の施された絹地の覆いを被せると、生きていた頃と同じように金の鳥籠の中へと横たえた。
もともと美しい鳥は日に日に衰弱し、死を待つばかりの身であったため、横たえられた死骸は一見、鳥が生きていた頃と大差なく置物のようであった。
けれど鳥は既に息絶え、どんなに黒王が話しかけてみようとも、あの可憐な声で彼に向かって言葉を返すことはなく、また籠の格子戸を開き手を差し入れて鳥の体に触れてみても、その身体は冷たく硬いばかりであり、その上何より王が悲しんだことには、死骸となった鳥はかつて纏っていた淡い虹色の光彩を失い、二度と美しい輝きを見せることはなかった。
王の私室で冷たい骸は徐々に腐り、悪臭を放った。その異様さに臣下たちは一様に眉を顰めたが、王が鳥籠を手放すことはなかった。腐臭に包まれる部屋の中で、鳥籠を傍らに、王は鳥を失った悲しみを嘆いて日々泣き暮らした。
そして鳥が白銀の奥方に殺されてちょうどひと月目の朝を迎えたその日、王はとうとう嘆き終えた。
即ち、王は鳥を抱える様にして鳥籠の傍らで、短剣で喉を突き自らの命を絶っていた。
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