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魔法の境界線

剣を振り下ろすと魔獣の肉が裂け、黒い血が迸り騎士の顔を汚した。耳障りな断末魔の叫び声が騎士の耳を震わせ、魔獣は地をのたうち回る。荒い息を吐きながら、騎士は一瞥だけ向けた。獣の血の混じった汗が額から顎へと伝い落ちる。それを拭う余裕はなかった。 剣を固く握った手はだいぶ前に痺れ、今ではもうなにも感じない。
先を急がなくては。

騎士は左腕の老婆を抱え直した。

老婆は頭から爪先までを覆う長衣に身を包んでいる。ひどく色褪せ、古ぼけた覆いから覗く顔は、乾いた皮膚がかろうじて骨に張り付いているだけのように見えた。固く閉じた目は無数の深く刻まれた皺の中に埋もれいる。身じろぎもせず、ともすれば老婆には、すでに息がないようにも見えた。

しかし、彼女を腕に抱く騎士は、彼女がまだ生きていることを知っていた。

騎士は顔を上げる。彼が今進む野原の先に、小川のせせらぎが見えた。川幅の細い水面に立つ飛沫が、午後の陽射しを浴びて金色に輝いている。

あの小川を越えれば、魔法が解ける。

重い足を一歩進めようとした時、足首に何かが絡みつき、強い力で後ろに引かれた。騎士は思わず膝をつく。足首に蔓草がきつく巻きつき、彼の歩みを止めている。騎士は握りしめた剣を振り下ろしたが、蔓草は金属のような音を立てて刃を弾き、一度では断ち切ることができない。騎士は繰り返し蔓草に剣を振り下ろす。その間にも巻きついた蔓は騎士の足首を固く締め付ける。足を取られた騎士は尻をつき、抱えた老婆ごと後方に引き摺られた。
やっとのことで蔓草を切り離し、立ち上がった騎士は小川の方を振り返った。すると斃れた魔獣の黒い血溜まり中で何かが震えているのが見えた。塊は三つ。血溜まりの中から飛び出すように、すぐにその塊は騎士の前に姿を現した。

新たな魔獣が三匹、騎士に向かって飛び掛かってくる。

鋭い牙と爪を振り払いながら、騎士は獣たちの向こうに見える小川に一瞬だけ視線を向けた。

あの小川を越えれば、魔法が解ける。


都から遠く離れた平原に、魔法のかかった人の近づけない土地があった。
ある晩、騎士の仕える藩主の美しい三人の娘たちが連れ去られた。娘たちは魔法の土地にいることが突き止められ、彼女たちを取り返すために藩主の命によって幾人かの騎士が魔法の土地へ赴いた。

だが、帰ってきたものはひとりもいない。

藩主の悲嘆は日に日に募り、ついには国中に、娘たちを連れ戻した者には千の栄誉、千の褒章、千の財貨を与え、さらに娘のひとりを娶らせるとふれて回った。
騎士はそこに名乗りを上げた。
彼自分が機転に優れた偉丈夫だと知っていた。必ず成功する自信があった。

それになにより、騎士は藩主の末娘の姿を宮殿の中庭の隅で一度だけ垣間見たことがあった。華奢でなよやかな体つきと、風にそよぐベールの内側に覗く潤んだ眼、あれを我が物にしたいと、騎士は心の底で渇望していた。

都から離れた魔法の土地は、平原の中に突如現れる滴るような緑が生い茂る森だった。
ささやかな小川を越えた先にそれは続いている。都から走らせてきた馬を降り、騎士はついにその小川を渡った。柔らかい陽射しを浴びて、噎せ返るような緑の中を歩いた先に、廃墟となった屋敷があった。門扉はすでに瓦礫となり、屋敷の壁も屋根もところどころ崩れ、草が覆い樹木が根を張り幹を伸ばし枝葉を広げていた。

中はしんと静まり返り、湿気と緑の匂いが漂っていた。部屋から部屋へと姉妹の姿を探して歩いた騎士は、広間へたどり着いた時、そこに巨大な魔獣が死んでいるのを見つけた。

獅子の頭に水牛の身体、その背中には鷲の羽が生えている。熊の蹄の四つ肢に、尾は三つの頭を持つ蛇だった。
 
その獣が、広間の中央で身体を丸めて死んでいた。

眠っているのかと恐る恐る近づき、その獣に息がないこと、さらには心臓が止まっているのを確かめた時、騎士は稲妻に打たれたような衝撃を感じ、その場に立ちつくした。恍惚を感じるほど、騎士は自分に訪れた幸運に打ち震えた。
 
この魔法の土地から、生きて戻る最初のひとりになるのだ。

魔獣の死骸はそのままに、騎士は足取りも軽く姉妹たちの姿を探した。
そしてまもなく二階の一室に入り、扉の開け放たれた部屋の中央に棺型の寝台が三台並んでいるを見つけた。
左の寝台の足元には黒い土塊が、右の寝台の足元には白い砂が盛り上がり、中央の寝台だけはその上に、背中を丸めてうずくまる人の大きさほどの荷が古ぼけた布に包まれて置かれていた。彼はそっと真ん中の寝台に近づき、布切れに触れた。
布の内側になにかある。静かに端をめくり上げると、覆いの奥から乾いて黒ずんだ樹皮が覗いた。この布は固い材木を包んでいるのだろうか。騎士はつかのまそれを見つめ、そしてまもなくそれが人の顔だと気づき、思わず息を飲む。黒ずんだしみが無数に浮かび、樹皮のように乾いて皺だらけの顔は、目も鼻の穴も唇も皺の奥に埋もれ、一見して人の顔だと見分けることができなかった。おそるおそる手を伸ばし指先を顔に近づけると、かすかな息吹を感じた。

思わず、騎士の胸が高鳴る。

連れされられた三人の姉妹。部屋に並ぶ三台の寝台。その中央で襤褸を纏う皺らだけの老人は、もしやかの三姉妹のひとりではないだろうか。

同時に、胸騒ぎがした。

騎士は両隣の寝台を順に見る。黒い土塊の白い砂は、ひょっとしたらすでに姿を変えた姉妹のうちのふたりかもしれない。
だとしたら、と騎士は思い直して中央に横たわる人に目を向ける。
三人のうちのひとりはまだ生きている。今は老婆の姿で眠っているが、ここから救いだし魔法を解かねばならない。
もう一度息のあるのを確かめてから、騎士は老婆を抱き起こし腕に抱えた。老婆は身じろぎもしない。
もはやこの屋敷に用はない。騎士は力強い歩みで屋敷から外へ出た。すると屋敷を囲む芝生の草がみるみる伸びて彼の胸の高さほどまで成長し、騎士の行く手を遮った。騎士は鞘から剣を抜くと、茎と葉を乱暴に切り落として道を作り先を急いだ。

屋敷からいくらも離れないうちに、騎士の進む先から低い獣の呻き声が聞こえた。騎士は足を止め辺りを見回す。唐突に、右手の木陰から見たこともない赤い毛並みの獣が飛び出し、鋭い牙を剥き出して騎士に襲い掛かった。騎士が薙ぎ払うと、怯まずにその刃に食らいつく。押し返されるほどの力強さに、騎士は焦りが湧いた。
その時、左腕に抱えた老婆の覆いがずれ、顔が覗いた。乾いて皺だらけの顔を見た騎士は、はっと胸を突かれる。
魔獣と切り結ぶ一方で、騎士は末娘のあでやかな姿を思い浮かべた。

魔法が解ければ。
自分の渡ってきたあの小川を越えれば。

腕の中は老婆は若く美しく、輝くような笑顔を持つ姫君の姿に戻るだろう。
都へ戻れば藩主は愛娘を抱擁し、涙を流して喜ぶに違いない。そして騎士の功績を称えて、約束通りの褒美が与えられる。
騎士は末娘の前に跪き、その手を取る許しを乞い、彼女に求婚する。
自分を救ったのが誰なのかを知る娘は夢見るようなまなざしで、うっとりと騎士を見つめ、恥じらいながらも彼の求愛を受け入れるのだ。
そのためには、ここで足止めされるわけには行かない。

まとわりつく獣に騎士は剣を突き立て、すぐに引き抜くと首めがけて振り下ろす。黒い血が吹き出し、獣は悲鳴を上げて地面をのたうち回った。
獣と対峙している間に再び騎士の脚には蔓草が巻きついていた。それを切り捨て、騎士は先を急ぐ。獣は倒した一匹だけではなかった。切り捨てる先から、斃れた血溜まりから湧き出るように次々と現れては騎士に襲い掛かった。そして獣の相手をしている間に、騎士の行く手を塞ぐように樹木が生い茂る。

森を抜けるまでに、どれほど同じことを繰り返しただろうか。
騎士は疲れ果てていた。剣を握った右手は痺れを通り過ぎ感覚がなく、老婆を抱える左腕は固まっているようだ。額に浮かんでは伝う汗を拭うこともできない。ただ剣を振るい、足を動かして前へ進む。

しかし、とうとう騎士の騎士の苦しみが報われる時が訪れた。

ようやく森が終わり、目の前が開けた。小川がすぐ近くにあるように見える。
陽は未だ高く、騎士が魔法の土地で過ごした時は止まっているかのようだ。ここへ来た時とさほど変わらない柔らかい午後の陽射しが大地を照らし、小川の水しぶきを輝かせている。
その光景に励まされ、騎士は力をふり絞ると自分にまとわりつく枝葉を払い落とした。
そしてもう一度老婆を抱き抱え、まっすぐに小川めがけて進んだ。
森を抜けると魔法の効き目は薄くなるのか、騎士の足を捉えようと伸びた蔓は力を失い、獣の呻きは遠ざかったままだ。
それに気づき、騎士はとうとう剣を鞘へ収め老婆を両腕で抱えて走りだした。小川はもう目の前だ。

あの小川を越えれば。

ついに騎士の待ち望んだ時が来た。せせらぎの音を聞きながら、騎士は飛び込むように水の中に足を浸した。瀬は浅く騎士の膝に届くほどしかない。老婆に水がかからぬよう、騎士は水の中を進んだ。そしてほんの数歩で、彼はとうとう向こう岸にたどり着いた。

騎士は老婆を地面に抱え下ろした。そして自分の足を水の中から引き上げ、しばらく荒い息を吐いてから、魔法のかかった土地を振り返る。
追手の気配はない。午後の優しい陽射しの下に、滴るような深い緑の森が広がっているのが見えるだけだ。
騎士は視線を戻し、老婆を見つめた。腕を伸ばし、そっと彼女のかぶる覆いをはずす。
乾いて皺だらけの顔をじっと見つめ、彼は魔法が解けるのを待った。
変化はすぐに現れた。

骨と皮ばかりのように見えた彼女の皮膚が黒ずみ、さらに固く樹皮のように変わっていく。これが魔法の解ける瞬間かと、騎士は喉を鳴らした。
まもなく老婆の身体は小枝が折れるような頼りない音立ててあちこちが折れはじめ、人の姿ではない塊になった。乾いた塊はまもなく砂に変わり、小川へと流れ込む。
息を飲んだ騎士が思わず砂の流れを止めようと身体ごと手を伸ばして砂を掴むと、指の間から砂がこぼれた。小川の流れが砂を運ぶ。砂の流れを呆然と見つめる騎士に向かって風が吹いた。切れ切れに残っていた老婆の長衣の破片とともに、残っていた砂が吹き飛ばされる。

魔法は解けた。

後には騎士がひとり、立ち尽くしていた。

<了>

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