【61】ネットから離れて過ごす1ヶ月 #睡沢週報
ちょうど最後の更新から1ヶ月が経った。
目の回るような忙しさと、グラフを見ただけで背筋を冷たいものが伝うような気温の乱高下。それをなんとか生き抜いた先に今日があった。
実利の面でも収穫はあったし、何より来年度以降の生活に安定が見えた。こうして筆を執っているのもその安定があってこそだ。しかし、それ以上に大きな収穫があった。
軽めのデジタルデトックス
定期的にデジタルデトックスめいたことをしている。
別段、変わったことをするわけではない。タイマー付きでロックされるボックスに電子機器をしまいこむわけでもないし、秘境の寺院で厳しい修行を積むわけでもない。
ただ、SNSと動画配信サービスを極力触らないだけ。
近年のサジェストAIは本当に優秀で、これまで私が見てきたものの傾向から「きっと興味を持つであろうなにか」を次々と投げかけてくれる。その商業的な善意のおかげで、私はそのサービスから離れる機会を見失う。
買う気のない最新ガジェット、見る予定もない映画のゴシップ、海を隔てた向こうで繰り広げられる思想的対立。ネットには「好奇心をくすぐられるが、私にとって必要なわけではない情報」が山ほどある。
それらを吸収していると、次第に私の頭蓋に収まったスポンジは保水力の限界を主張しはじめるのだ。処理速度が落ち、記憶容量が圧迫され、挙句の果てには睡眠に支障が生じる。
私にとってデジタルデトックスとは、脳のメンテナンスだ。
代わりに何をするのか
当然、時間が空く。たいていの場合SNSや動画配信サービスを触っている時間というのは手持ち無沙汰なのだから、その時間を放っておいたところで勝手に埋まることはない。
ここ最近忙しさにかまけて疎かにしていた読書の習慣を復活させた。
勉強しなくてはいけないことが色々と待っているから、それらを片付けるのが最優先だ。ただ、気分転換にキリスト教、とりわけカトリック神学の本も読んでいる。
神学。つまるところ信仰主体による宗教への学問的アプローチだ。しかし、私はクリスチャンではない。
何を学んでいるかというと、クリスチャンが自らの信仰とそのコスモロジーをどのように認識しているかだ。それを知らないことにはキリスト教を扱う小説は書けないだろうと気づいた。
私はもっぱらエンタメ小説を書く身だから、どうしても題材を婉曲的に解釈する場面が生じる。そういうときに不誠実なことをやらないよう、題材に対して真剣に向き合う必要がある。
来年度はだいぶ時間ができるから、一作本腰を入れてキリスト教を扱った小説を書いてみたい。それもエンタメで。
プロットと序盤の1万文字は書けているから、来年度のカクヨムコン目標かな。今年度は2月の頭くらいまで大変に忙しい。残念ながら今回は見送る形になりそうだ。
ネットを触らないわけではない
線引をしなければいつまでもネットサーフィンをしてしまう。ネットサーフィン、この語も使われなくなって久しいように思う。ネットの利用姿勢が能動的から受動的に移り変わったからだろうか。
それはともかく、どこまでなら触るのかに「通知は確認してよい」という基準を設けた。メンションには反応するし、応援している配信者の配信は確認できるが、漠然とネットを流し見することはしない。
意外とこれが快適だった。見たいもの、見る必要がありそうなものを見ないという我慢はストレスになる。
ただ、自分から連絡を取る頻度が下がる。遊びの約束など、場合によっては催促しなければ予定が確認できないこともある。危うく今年の忘年会が流れるところだった。
忘年会は和食のコースに決まった。軽めのデジタルデトックスですっきりした脳を載せて、今年の残りも頑張るとしよう。