焚き火番しようか
帰宅してから一週間経つが、未だ荷解きをしていない。洗面用具は出した、スマホの充電器も出した、下着類も必要なものは出した。開かれた貝殻のような鞄に残ったものはカラフルなネイルカラー、スケッチブック一冊、恋愛映画のDVD3枚、数枚の衣服類。近いうちにまたこのキャリーに荷造りをして海沿いの町へ旅行へ行くのだ、最低限必要なものが取り出してあればひとまず良いだろう。
数年前、秋冷えの迫るこの時期に家族で山奥のキャンプ場に行ったことを思い出した。寝袋から一番最後に起き出して、朝食にひとりで食べたカップヌードルのうどんがやけに美味しかったこと。朝露のやどった下草でびっしょり濡れたスニーカーの感触。キャンプ場の空気は朝もやの粒子をたっぷり含んで冷たかった。夜中でも明るいトイレでは友人に電話をかけた。昼間に親と喧嘩をした時は、宛てもなく歩きながら前の高校の友人に電話をかけた。
窓外にはまだ日の光も見えないけれど、夜を抜けて群青に、淡く淡く染まっていく空がある。砂埃やガスで汚れた網戸から夜明け前の静かな空気を吸い込むとき、あのキャンプ場の朝を思い出す。電話口で友人が部活を辞めた話を聞いたことも。
ふと焚き火がしたい。木炭を燃やしてバーベキューをしたことはある。本当は落ち葉や枯れ枝を焚きつけにして、燃え盛る小さなオーロラのような炎に手をかざしたい。パチパチと金色の火の粉を飛ばす篝火にふれたなら、ホログラムのように光の向こうに手が透けるんじゃないかといまだに想像してしまう。実際はジュージュー音を立てて肉の焼ける匂いが立ち込め、手のひらに大火傷を負って終わるのはわかっているけれど。
秋の天高く澄んだ空色に肌を涼しく撫ぜる風が吹く好天日は、焚き火でクランペットやマシュマロを炙って、シナモンの香りのする甘くて温かい飲み物を飲みたくなる。すっかり紅葉した落葉樹の下、きのこのぽこぽこ湧きでる湿った落ち葉の上で、えんじ色のセーターに暖かみのある色のストールをぐるぐるに巻いてユルスナルの「火」を読みたい。昨日届いたばかりの神話にまつわる散文詩集だ。焚き火で連想した、レイ・ブラッドリの「華氏451度」や「十月はたそがれの国」もいい。焚書の炎にまかれて舞い上がる焼け焦げた一ページ。ミヒャエル・エンデの「モモ」や「はてしない物語」も読み返したい。黄金色のチョコレートが舌でとろけて喉にからまる匂い。アニータ・ブルックナーの「秋のホテル」。秋の本が読みたい。
できることなら、焚き火番をしながら。