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内藤礼「生まれておいで 生きておいで」が怖かった

内藤さんの作品への違和感について、考えてみたいと思う。色々と気になるポイントはあるのだけれど、まず一つは、歴史に対する考え方が自分とは違うのだろうと感じた。たとえば縄文土器を扱うにしても、内藤さんはその文脈を全て剥ぎ取って、自分の作品の一部に取り込んでしまう。土器が土器でありながら、その多様な側面や歴史を含んだまま作品の一部を形成しているのではなくて、完全に内藤さんの「作品」に収斂してしまう。ここで縄文土器は、布やガラスと完全に同一化している。それこそが内藤さんの作品らしさ、モノへの態度であることは理解できるのだけれど、自分は非常に怖いと思ってしまう。というか、内藤さんは全ての作品において、究極のノンポリだと思っている。それは広島や福島を機に制作された作品を見たときに強く感じた。「世界」や「世界観」はあるけど、おそらくそこに「社会」はない。歴史も、時間の概念もない。完全に静止した内藤さんによる小宇宙というか、抽象化された空間だけが広がっている。そこでは、お水も布も縄文土器も、もっというと作品を鑑賞する我々自身すら、すべて等価に「尊重される」。

では、こうして文脈がはぎとられ、作家という「神」の下に等価なものとされたモノたちが、純粋なモノとして、つまり即物的な存在として立ち上がってくるのかというと、それもまた違うように思う。そこにはおそらくなにか「聖なるもの」が宿されている(のだろう)。瓶に入ったお水とか小さな布は、作品化された時点で、同時にそれらは「単なる」水や布ではなくなる。このモノをモノとして尊重しているようで、実際にはそこにそれ以上の意味みたいなものを宿そうとする態度が、自分には抵抗がある。SNSを見ていると、内藤さんの作品が好きなひとたちは、作品の「奥」にあるなんらかの思想や哲学を、ある種の神聖なものとして「読み解こう」としているようにも見受けられるのだけれど、これは、ほぼ構造的には宗教と同じだと思う。だから彼女の世界観に含まれること、抱かれることへの抵抗感があるかないかで、おそらく内藤さんの作品を肯定できるかどうかが決まるように思う。その意味ですごく好き嫌いが分かれる作家のような気もする。

そして、わたしの思うところの人間というのは、どうしようもなく持て余す個人であって、ばらばらで包括し得ない存在なのだけど、多分内藤さんはそういうリアリティのあるものとして人間を想定してはいない。もっと抽象的な、ある種普遍的なレヴェルで捉えている。自分は社会との軋轢や違和感みたいなものが、どんな作品の根底にもあってほしい、と多分どこかで願っているのだけれど、そこが想定されていないことに不安を感じる。鑑賞者は飽くまでも内藤さんによって「完成」させられた世界の前に平伏してしまうというか(そのつもりで制作されていないのは分かるのだけど)、作品の方に鑑賞者に対してぶんと放り投げる、投げ出す、委ねるようなところがないように思う。「生まれておいで 生きておいで」という言葉からも、個人個人勝手に生まれて好きに生きればいいよ、というような自由さよりも、むしろキリスト教的な、神の御許に等しく存在する者に対する「赦し」の概念に近いような印象を受ける。等しさは、裏を返すと個人差が想定されていないこと。だから内藤さんの考える「世界」に自分は属せない、反射的に怖い。それは言い換えるなら、全体性への回帰みたいなものへの抵抗感ということになるのかもしれない。だから「地上の生」といいつつ、彼女にとってのそれは形而上学的な世界で、地上からは浮いているのだと思う(「地上の」とつける時点で、地上ではない場所の存在が想定されているわけだから、当然かもしれないけれど)。つまり、擦れていない。作品化した時点で、全ては「浄化」されている。この全てを受け止めるような身振りをしながら、美しいものだけが選ばれている感じが、おそらく自分にとっては息苦しさ、閉塞感につながっている。

もう一つ、「地上に存在していることは それ自体祝福であるのか」を制作のテーマにしているけれど、自分は内藤さんの作品に触れるとむしろ、死を生と同じ重みで捉えている印象を受ける。生の肯定というよりは、むしろ死を否定していないような。鑑賞していて、なんとなくそこもダウナー感につながっているというか、すごく危なげな感じがする。生きよう、というよりも、なんかこのまま死んでもいいや、みたいな気になってくる。私だけだろうか?


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