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トーマの心臓を読み返す

久しぶりにトーマの心臓を通しで読んだ。子どもの頃から何百回読んだか分からないくらい読んでいるけれど、最近は読み返すことが減って押し入れにしまわれていた。改めて読むと子どもの頃感じながらも言葉で説明できなかったことが説明できるようになっていることに気づく。
子どもの頃、母親がオスカーが一番好きだと言うのがあまりピンと来ていなかったのだけれど、大人になってから読むと、誰かの痛みに気づきながらもあえて尋ねないということ、徹底して待つ、ということが人を救うということ、そうした態度の尊さのようなものが見えてくる。子どもの頃は気づかなかったけれど、母親自身の人間性というか価値観がそのようなものだったのだろうなということも。しかもオスカーは育てられてきた環境によってそのような考え方、ある種の処世術を身に付けざるを得なかった側面があって、そこにまた切なさがあるということも、子どもの頃はあまり気づけなかったように思う。ただ、生きることの切なさとそれでも生きようとすること、その切実さに打たれていたことは今も昔も変わらない。
よくトーマの心臓はテーマが崇高で云々と言われるけれど、トーマの心臓で書かれていることが崇高だと思える人間は幸いだろうと心の底から思う。何のために生きるのか、何で生まれてきたのか、他者とは、自己とは、……私にとってそこで描かれているこうした問題は「崇高」でもなんでもない、いつもどんなときもこれ以上ないほどにどこまでも身近で最も切実なことであるから。
また今回読み返してみて、誰かを愛することができるという前提を前提としなかったところにトーマの心臓の新しさがあったのだろうなと改めて気づいた。◯◯くんを好きになる、ライバルが現れる、結ばれる、といった一般的な少女マンガの一連の流れの中で、一番はじめの誰かを好きになる、というそのスタート地点そのものが、それまでの少女マンガにおいて主題として問われたことはなかったかもしれないと思う。誰かを素直に愛することができる、信じることができる、それを表現できるのは実は非常に恵まれた、奇跡みたいなことなのだと。だから、トーマの心臓は、一人の傷ついた人間がスタート地点、ゼロ地点に立つまでの物語という意味で何よりも尊く、感動的なのだろう。
それと、やはり歳をとったせいなのか、昔は純粋にエーリクやユーリに心を寄せていたのが、妻を喜ばせようという一心でエーリクをトーマの家に連れてきてしまったことを詫びるトーマの父親とか、差別する姑に対してやんわりとしかし毅然とした態度を取るユーリの母親といった周りの大人たちの心情に新たな感動を覚えた。
ユーリに混血のドイツ人という設定を与えたことも、子どもの頃はあまり深く考えなかったけれど、今読み返すと凄みがある。ユーリは誰からも尊敬される優等生でありながら、一歩ギムナジウムから社会に出ると、差別される主体なのだと気づく。ユーリだけではない。オスカーは自分の育ての父が実際の父ではないことを知っている。エーリクもまた片親で、母親の彼氏がいつも入れ替わり立ち替わりしている。そしてトーマの家族もまた、彼が(自殺によって)亡くなってしまったことで、ある意味では「欠陥のある」家族構成となってしまった。皆、ある種の周縁を生きる、毒親育ちと言えるような環境で、孤独を抱えながら育っている。しかし彼らはそれぞれのかたちで共通の不在を共有しつつ、血縁関係にとらわれない家族としての心のつながりを取り戻していく。喪失を抱える者たちが、言葉にできない思いを抱えながら、それでもなんとか交わろう、生きようとすること。その徹底した眼差しの繊細さ、優しさ、そしてある種のリアリズムに打たれる。しかし裏返せば、それは「誰でも話せば分かり合える」式の、楽観的なコミュニケーションへの諦念でもある。この底にある諦念の感覚を共有できるか否かで、トーマの心臓、というか萩尾望都の作品を分かる(と感じられる)かどうかが決まるのだろうと思う。

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