『9割が女性患者の難病』にかかった『ボク』の話④
※この記事は少し長くなります。マイペースで読み進めて頂けますと幸いです。
こちらの記事の続きになります。
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入院したのは23歳の夏ごろだった。
緊急入院ということで空いていたのが、無菌室の病室だった。
映画とかでよく見る、白血病患者の方がいるような部屋だった。
実際、膠原病の他に血液内科も併設されている病棟で、僕以外はおそらく白血病の方なのだろう。
ベッドの周りをカーテンでなく、透明なシートで覆っている。
とても暑かった記憶があるが、そもそも体温も39度くらいが日常だったので実際のところはよくわからない。
入院中も氷枕が常に必須だった。
溶けたら交換、溶けたら交換の繰り返し。
氷の冷凍が追いつかないほどだ。
それでも熱はすぐには下がらなかった。
1週間ほど無菌室で過ごした。
窓のカーテンも締め切っていて、明かりも暗い。
その状況がさらに気持ちを落ち込ませる。
これから先、この人生に光が差し込むことはないんだろうな…と。
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1週間後には通常の大部屋に移動になった。
空きが出たみたいで移動できたのだが、ひとまずよかったと感じた。
トイレに行く時など、無菌室を出入りする時に、まず重いシートをめくってドアまで行く。そして重い引き戸を開けて外に出る。
という工程を踏まないと外に出られないのだが、筋力低下している自分の体には結構堪えた。
重いと感じたのは筋力低下によるものかもしれないが、部屋を出入りするだけで体力を消耗する。
本当におじいちゃんのような体だった。
年をとるとこんなにもツラくなるんだなと勝手に感じた。
移動した先の大部屋はドアもシートもない普通の所だった。
カーテンで仕切られている4人部屋。
通路側に2組、窓側に2組。
看護師さんによると、僕は日光にあたるとよくないので、窓側はダメだと言われた。
通路側だと視界に壁とカーテンしかないので、開放感はないが、無菌室の時と比べるとそれでも開放的に感じるから、まぁいいかと思った。
大部屋に移ってから1週間経った頃だろうか、いくらか体が楽になってきた。
熱の方も38度前半くらいまでさがり、筋力も多少戻ってきている気がした。
ただステロイドの副作用も出てきたように感じた。
まず「ムーンフェイス」である。
顔が満月のようにパンパンに膨らむ現象である。
入院する前からステロイドを使用していたのもあるだろうが、量も増えたので一気に現れてきた。
フェイスラインが大きく崩れ、鏡を見るのも嫌になってくる。
ただでさえ、脱毛で薄くなっている部分が見えているというのに…。
しかも髪は脱毛してくるのに、副作用で腕毛や他の毛が濃くなっているように感じる。
抜けてほしくないところが抜け、生えて欲しくない所が生えてくる。
ニキビも増えてきたし、食欲も増して、病院食の大盛りでも全然足りなかった。
現れ始めた副作用はこんなところだろうか。
段々と目に見えて変化していく自分の体を見て、一体このままどうなるんだと不安に感じたのはよく覚えている。
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眠剤を溜め込む計画は着々と進行していた。
使用したか確認のために、薬の殻は回収されるので、別の袋に入れて溜め込んでいた。
1日1個ずつ増えていく。
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看護師さんがよく声をかけてくれる。
病棟の看護師さんは1〜3年目の方が多く、年の近い人がよく担当してくれていた。
軽口も有り、話しやすかった。
ただ、この時の心情としては哀れみの気持ちから仕事上仕方無しに話しかけているんだろうなと捻くれていた。
でもそれが救いだった。
入院当初は自己嫌悪からか他人と目を合わせて話をすることもできずにいたが、徐々に目を合わせて話をすることができ、笑うことも少しずつ増えていき、体の調子もちょっとずつ良くなっている気がした。
看護師さん達のおかげで感情を取り戻せたと思う。
「病は気から」という言葉があるが、本当にそのとおりだなと感じた。
気持ちの方を少しでも前向きに持っていければ、体の方もいい方向に向いてくれるんだなと。
(本来の意味では気持ちではないらしいが、ここでは気持ちの方の気で)
この時は患者で同年代の方が見当たらないというのと、女性が多い難病にかかったということで激しい孤独感に苛まれていた。
それを看護師さんとの交流でいくらか紛らわせることができた。
本当に感謝しかない。
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病棟内にデイルームという談話室みたいなスペースがある。
テーブルやイス、テレビや本の貸し出しもやっている。
体が少しずつ動かせるようになると、ベッドの上に居てばかりだと飽きてくるので、運動の一環としてよく行った。
いつもそこまで人の数は多くないが、この日は先客が居た。
高校生ぐらいの女の子だろうか、自分のよりも年下の子が入院しているのはこの時初めて知った。
電話をしていた。
聞き耳を立てるつもりはなかったが、どうやら学校の友だちと話しているらしい。
この病棟は膠原病科と血液内科が一緒で、なんの病気で入院しているのかはわからないが、夏休みに入ろうかというこの時期に入院するのはつらいだろうなと思った。
早く退院したいと言っていた。
(友達は学校生活を楽しんだり、遊んだりしてて、自分も一緒に楽しみたい年頃だよな…)
そんな風に感じた。
あの子も早く退院できるといいな…などと考えながら、貸出用の本を選びデイルームを後にする。
人の事を気にかける余裕が出来ていることに自分でも驚きだった。
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入院してから1ヶ月くらい経とうかという時期、トラブルが発生した。
同部屋の人から
「○ろすぞ♪」
と脅される事態に。
静かに過ごしていて、その人とも全く交流はなかったが、一方的に嫌がらせが続き、遂には脅されることに。
看護師さんに聞けば、その人も膠原病患者で、僕とは違う病名になるが、もう結構な年数闘病されていて、ステロイドの使用歴も長いとのこと。
それにより副作用で「ステロイド精神病」の状態だということだった。
躁うつ病や、せん妄、軽度認知障害を引き起こすらしい。
確かに当初から、突然歌いだしたり、見た目はおじさんなのに話し方が妙に幼かったりと、変わった人だなぁと感じていたが、ステロイドによりそうなっているとは思いもしなかった。
それを聞くと、自分の将来もああいう風になるのかな…と感じ、なんともいえない気持ちになった。
今こうやって看護師さん達と笑って話せているのは躁状態だからなのではないかと…。
疑心暗鬼に苛まれそうだった。
しかし、発症した当初にこういう事例があると知れたことはよかったと思う。
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そんなこんなで、大事になる前に僕が引っ越すことを提案された。
なんと個室部屋が無料で使えるとの特典付きで。
僕は両手を挙げて賛成した。
まさかこんな展開になるなんて夢にも思わなかった。
テレビはイヤフォンなどせずに見放題。
音楽もスピーカーで流し放題。
とてつもない開放感だった。
窓があることも大きかった。
一応日中はブラインドをすることになるが、それでもこれまでと比べると全く違う。
イヤッッホォォォオオォオウ!!
と叫びたかったがそれは自重した。
向こう側の退院が1週間ほどなので、長くは満喫できないが、こんな展開めったにないことなので、せっかくだから楽しませてもらった。
そう思えるくらいに心の方は回復傾向にあったと思う。
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1ヶ月位になると、外出許可も出るようになった。
ステロイドの量はまだ60mgで変わらないが、ここから徐々に5mgずつ下げていくとのことだった。
外出許可が出たことで、タイミングよく参加したいものがあった。
それは「膠原病友の会」という団体があり、その中で「男子会」という膠原病の男性だけで集まる催しがあった。
本当にちょうどのタイミングだった。
歩くスピードもまだまだ本調子とはいえず、おじいちゃんのような体であったが、多少無理してでも今は膠原病に関する生の情報が欲しかった。
参加していたのは僕を含めて6人ほどだったと思う。
「SLE」や「ベーチェット病」「強皮症」の方、あと最近息子さんが「SLE」になったというお父さんが参加していた。
息子さんのこれからの事を案じて参加されたらしい。
催しといっても、レストランやカフェで食べながら交流するというものだったが、様々な事を聞けた。
自分の状態を話すと驚かれたが、この時の自分にはピンときていなかった。(ステロイド60mgで外出許可が出ることに特に驚いていた)
ステロイドの副作用で、めまいや手の震えが激しかったが、退院に向けての予行演習だと思って、この日は病院に無事帰れた。
長年、膠原病と付き合いながらも仕事を続けられている実情を聞くことができ、とても有意義だった。
また別の日にも外出許可を貰った。
これから仕事をしばらく休むことになるので、これから「傷病手当」なるものを申請するように会社の総務の方からアドバイスを頂いた。
病気によって働けなくなっても、給料の6割ほど頂けるらしい。
だが6割では家賃のことを考えると、とてもじゃないがやっていけない。
なので退院する時期に合わせて、引っ越す必要があった。
そのための外出を何度かしなければならなかったのだ。
家族の助けを借りれば良いものの、この時の自分の性格としてはそれができなかった。
不器用な性格だったのだ。
1人で諸々の手続きをやった。
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1週間にステロイドを5mgずつ下げて様子を見ていた。
40mgくらいになるころには退院の話が遂に出た。
この頃には蝶形紅斑もだいぶ収まり、外見上の変化はムーンフェイスくらいだった。
細かいところでいえば、手の震えや、ぼーっとするなど思考力の低下があったが、おおむね日常生活くらいなら問題ないレベルにまで回復した。
ここまで来るのに2ヶ月近くかかった。
退院出来たのは8月半ばの暑い頃だった。
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退院後、まずは職場に連絡した。
療養のために無期限のお休みを頂くことになった。
今後は会社の総務の方と連絡を取り合うことになるらしい。
実は入院している時に判明したのだが、この総務の担当の方は、なんと僕が入院していたこの病院で看護師をしていた事もあったそうだ。しかも膠原病科で。こんな偶然があるのだろうか。
なので幸いにも僕の病気に対する理解があったし、気にかけてもらえたのが救いだった。
それから、すぐに引っ越した。
まだ一人暮らしを続ける辺り、意地っ張りだなと自分でも思う。
もう一つ理由があって、ためている眠剤の存在を知られたくなかった。
だから一人暮らしを続ける理由があった。
多少重いものなどの荷造りは父に手伝ってもらったりした。
引越し業者のお兄ちゃんが軽々と重い荷物を持つのを見ると、自分の筋力の無さを感じた。
いちいちそんな事を気にかけても仕方がないのはわかっているんだけど…。
この時はステロイドによる躁鬱があったのは自覚できていたので、なんとか自我を保っていたと思う。
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眠剤の方はまだ100錠に届いてなかったので、引き続き外来で貰った。
3,4回外来で通った時に達成したと思う。
ついに揃った…。
大量の薬を目の前にして考える。
(…これ全部飲めば楽になれんのかな)
(…またあんな苦しい思いをするくらいなら、いっそのこと今死んだほうが楽やん)
(…自分ひとりが死ぬくらいたかが知れてるし)
それと同時にこんな事も頭によぎった。
(…一人暮らしの今、死体は誰が見つけるんやろう)
実はこの時期、付き合っている人がいた。
こんなひどい状態の自分でも好きだと言ってくれるような人だった。
(後程別れることになるが、他の人と幸せになってくれていることを切に願う)
その人の顔が浮かんだ。
自分の家に誰かやってくるとしたら、おそらく彼女か家族かだろう。
見つけた人のトラウマになるかもしれない。
そう考えると薬を口に放り込もうとしていた右手をゴミ箱に向けた。
理性が勝った。
苦しいのは自分が我慢をすればいいだけだ。
彼女や家族にトラウマを背負わせることはない。
そんな迷惑はかけられない、と考えたことで思いとどまった。
あとは、本気で死ぬ勇気が自分にはなかったんだと思う。
本気で死ぬ気であれば思い留まることなんてなかっただろう。
そんな勇気なくてもよかったんだと思う。
だって…今はこうして笑って生きていられているんだから。
そんな24歳の秋頃の話。
==⑤に続く==
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こんにちは。
改めまして、KOH@メタメタ系男子です。(sle_koh)
4話目までやって来ました。
前回と異なり、前向きな感じで締められたかなと思います。
ネタバレしたとおり僕は生きてますので、眠剤は飲まずに済みました。
ただ、本当はこういう事はしてはいけません。
処方された薬は用法、用量を守って使ってください。
お兄さんとの約束だぞ!(お前が言うな)
退院して、引っ越したことでリスタートします。
次回は新たな展開が始まり、そしてまた打ちのめされます笑
もう少しお付き合い頂ければ幸いです。
ここまで長文をご覧頂きましてありがとうございました。
これをご覧の皆様にとって良い1日でありますように。