正欲を観て少し感情がぐちゃぐちゃになったので感想を吐き出す
※記事の性質上ネタバレを含みます。
正欲という映画を観に行った。
映画自体は先月に公開されており、もう上映から一か月経っている頃なので今更かもしれない。
別の映画を観に行ったときに予告で見かけていて少し気になってはいたのだけれど、11月の頭に色々あってちょっと元気がなかったことと、その原因と本作のテーマが少し関係していたので、ちょっと鑑賞を避けていた。
先月中は空元気で無理くり大丈夫なふりをしていたけれども、一か月経って幸い(ちゃんと本当の意味で)少し元気になってきたこと、上映館もだいぶ減ってきていて早く観に行かないと観るタイミングを逃しそうだったので、重い腰を上げてようやく観に行った。
観に行って、しっかりダメージを負った。
なので、ちょっとその辺を整理するためにも感想を諸々吐き出させてほしい。
思ったことを思った順に書いているので、多分文章としてのまとまりはほとんどない。読みづらくてすみません。
結論から言っておくとすごくいい映画だった。
いい映画だったけど、繰り返し観るのはちょっと多分辛い。そんな映画。
突然全然関係ない話をするんだけれども、僕が「魂のゲーム」と呼称しているゲームにHellsinker.というゲームがある(魂のゲームについての定義はあいまいなので、他にもいっぱいあるが)。
そのゲームを初めて起動した時に表示されるダイアログに、こんな一節がある。
ゲームの本筋とはそれほど関係なかったのに、僕はこの一節が本当にずっと心に残っている。
そういえば、宇垣アナウンサーも何かのインタビューで同じことを言っていたらしい。「自分には自分の地獄が、他人には他人の地獄がある」だっけか。
僕が普段何を悩んで、何に傷ついているのか、真の意味で他人に理解してもらえることはおそらくない。
その逆も然りだろう。人それぞれ心の強い部分、弱い部分は違う。僕が傷つかないことも、他人にとっては耐え切れない痛みであることも往々にしてよくある話だ。
でもそれを踏まえたうえで、きっとその地獄ってやつの苦しみを共有できないにしても、そういう地獄があると知って、寄り添うことはできるし、寄り添ってもらうこともできる。
ズカズカと他人の領域に分かった風な顔して土足で乗り込まないで、ただそういう類の苦しみがあると認知して、それを受け入れる。別に共有できなくてもそれでいいじゃんと。そう思っていた。
それでも、寄り添うことでその人の助けになるというのにも限界はあるんだなぁと。この映画を観て何と言うか、ちょっとそういうショックを受けた。
同じ地獄を共有できる人がもしいれば、それに越したことはない。
そしてそれは当事者同士でしかきっと共有できないことで、寄り添うだけでは解決できない。
僕がつらいと言ったのはそこで、もうこれは僕にはどうしようもないのだなと。
知りてえよ、他人の地獄。一緒に背負うくらいのことはさせてくれよ、って。
でも当人にとってはきっと余計なお世話なんだろうなと。
それこそ作中の八重子と大也の関係がまさにそれで、ピンポイントに一番ダメージを食らっていた。
男性恐怖症の八重子からしたら異性としてちゃんと意識できる大也の事はそら特別な人だろうし、寄り添ってあげたい、一人でいてほしくないって思うのは当たり前のことだろう。
でも、大也からしたら八重子に対しては最初嫌悪感すらあっただろうし(まぁ複垢でインスタに画像クレメンスはちょっと擁護できない)、マイノリティのツラして、それこそ私は理解してあげられる側ですってツラして接してくる八重子に対しては怒りも抱いていたと思う。
それでもちゃんと八重子と向き合ってあげた大也は偉いと思うんだけど、彼女の気持ちを理解してあげたうえで、自分の苦しさを理解してもらう相手として八重子を選ぶことはなかった。
誰も悪い人がいない分、それが本当につらい。
最後に八重子にかけた「ありがとう」は多分本心からなんだろうけど、八重子が報われないなって。
というか諸々込みで考えて作中一番かわいそうなの八重子じゃんね。
でもこれもきっと主観の話であって、僕が見落としてる八重子の傲慢さ、ひいては僕自身の視野の狭さも多分あるんだろうなぁ。あ~~~~~。
でも、そもそも他人の地獄に理解を示そうとすらしないとどうなるのかという例として啓喜の存在はよかったなって思う。これが必要悪…。
最近本怖以外で吾郎ちゃん見てなかったけどやっぱりいい役者さんだなぁ。
ラストで離婚調停中となってしまった啓喜と、佳道に「いなくならないよ」と伝えた夏月の対比がえぐいくらい綺麗というか、なんか小説的で凄い良かった。救いはあったなぁって思う。
でもその救いも結局同じ地獄(孤独感や疎外感)を抱えてる人同士が一緒にいることができるって救いなんだよね。
その地獄を持ってない人にはその地獄は救えないんだよね。
は~~~~~~~~~~~~。
昨今(と言ってもここ数年は逆にそういう作風であることを前面に押し出すと叩かれる風潮になってきたけど)、LGBTQをテーマにした作品はかなり増えてきた。グレイテストショーマンあたりの頃からかな?
あの映画自体は演出や音楽が素敵だったのですごい好きだったんだけど、ただなんというか、心のどこかにずっと引っかかっているものはあった。なんかああいう作品って、基本的に「少数派の人を多数派側が受け入れよう。うおおおお多様性!!!」みたいな方向のメッセージ性が強いなぁと。
いいじゃん別に。少数派は少数派で好きにやってるんだから。多数派様が少数派の事を気に食わないのは分かってるんだから、どうしてわざわざ石をひっくり返して「うわ、気持ち悪。でも虫にだって命はあるんだから大切にしてあげないとね。気持ち悪いけど」ってやりにくるんだ、みたいな。そんな感じ。
こっちは石の裏でそっとしておくし、出てきたくなったら勝手に出てくるのに、なんでわざわざお前らの方から石をひっくり返しに来るんだよって言う、そういう多数派の傲慢さみたいなのはどうしてもちらついて見えてしまっていた。
そういった類の違和感を正欲からは感じなかったというか、感じないからこそ心に傷を残された感が強い。
というか話の展開として、そういう「少数派もいるんだ、うんうんそれも一つのありようだよね、受け入れようね」って観てる側に思わせといてからの、あの小児性愛者の登場は本当に上手いなあと思った。
多様性、大事だよね!受け入れないとね!じゃあこれは?
いや、そら良くない。だって子供を傷つけてるんだから。
良くないけど、じゃあその欲望自体を否定するのか?お前がさっきまで心の中でしたり顔で腕組んで、うんうん多様性は大事!って言ってたのは?
そもそも理解を示すと言っておきながら、いまお前は子供が売春されているこの映像に嫌悪感を抱いているよな?本当に理解を示せるのか?って。
繰り返しになるけど結局当人にしかわからないのだ。
同じ類のそれを共有できるのはそれを持っている人同士だけで、他人からはどうあがいてもそれを理解するのは不可能なのだ。
程度の大小はあれ、人は多かれ少なかれ啓喜のように他人を理解できないようになっている。
作中で佳道と夏月が言っていた、一人ぼっちじゃなければいいねという言葉は、それをちゃんと向き合って、悩んで、理解している当事者じゃないと出てこない言葉だったなと思う。
そしてその一人ぼっちじゃなくしてあげられるのは、同じ欲を持った人同士であって、いくらしたり顔をしても当事者じゃなければその孤独を埋めてあげられないというのが、ちょっとマジで色々つらくてやるせなかった。
そういう理由でこの作品が心の深いところに刺さってしまい、いまも抜けてないという、そんな感じです。
本筋に関する感想はそのあたりで、後は嫌な奴の嫌な演技の精度がクソ高いせいで、見てて別種のダメージを負っていた。
田舎特有の結婚して当たり前、って空気感とか、夏月の元いた勤め先のお局の雰囲気とか(若い子がすぐ辞めてくのどう考えてもおめーのせいだろ)、夏月の実家の居心地の悪さとか、夏月が自殺しようとして自棄になったときの感じとか。
……文章化して気付いたけどこれ田舎の人間関係の在り方が嫌いなだけだな僕。
あとは前情報何も入れてなかったので最初夏月がガッキーって気付かなかったです。
ガッキー、マジで良い年の取り方をしたな…。滅茶苦茶美人…。あと疲れた陰のある女の演技がクソ上手くてびっくりした。
まぁあらかた吐き出したいところは吐き出せたと思うけど、また何か出てきたら追記するかもしれないです…。
それでは。