大の字岩、大明神、不動明王、そしてハンマーカンマー
高遠ダムと仙丈ヶ岳を結んだ軸線上にある大明神(2021.12.11撮影)
最近は何かのついででないと岩石を見に行く時間がなかなかとれず、だいぶストレスがたまっています。昨日は、自転車で長谷非持に行ったついでに、初めて地上に自らの足で降り立って、肉眼で守屋貞治の例の石仏「大聖不動明王」像を見てきました。
「空中」から見るお不動さま(2021.12.11撮影)
といっても、本当の目的は、「大の字岩」を探すことでした。大の字岩を知っている人は、もう現世にはいないと思っていますが、18世紀の高遠付近について書かれた書物に出てくる岩です。今の長谷と高遠の境あたりの大明神にあることは、分かっていたのですが、どれが大の字岩なのかと、これもしっかり探さず、通りすがりにチラチラ見ていただけで見過ごしてきてしまいました。
結論から言いますと、今回、ちょっと探してみてもよく分からなかったのですが、もしかしたら「大聖不動明王」が据えられたこの大岩がそれなのかな、と思いながら見てきました。地元で「大の字岩」に詳しい人がいればぜひ教えてもらいたいものです。
「大の字岩」と思われる岩(2021.12.11、三峰川右岸より撮影、橋は常盤橋、橋台を支持する岩盤として「大の字岩」が利用されているように見える)
合流点方面から別の角度で「大の字岩」と思われる岩を見る(2021.12.11、三峰川右岸より撮影、橋は常盤橋、淵は筥淵と思われる)
「板町落葉」の「大の字岩」の記載部分
蕗原拾葉第9輯
木の下蔭の「大の字岩」の記載部分
蕗原拾葉第9輯
しかし、「不動明王」の石仏ですが、とても拝みづらい場所にあって、今も近づくのは危険なので、常盤橋の歩道から拝観するようになっており、空中から観察するような格好になっています。1972年の常盤橋のコンクリート桁橋への架け替え前にこのお不動様がどのようなところから見られ、拝まれていたかが気になります。
昭和22年の大明神付近の航空写真(三峰川右岸が主要道路で、常盤橋ではなく山室川の大明神橋が北から非持方面に出入りする交通に主に利用されていたと思われる)
1947.10.30 米軍撮影の航空写真
どうもこの前後の昭和50年代は勝間公民館の前にお不動さまは移転していたようで、これが国道152号関連工事に伴う一時的なものであったかどうかはわかりませんが、写真を見ると、移転前もほぼ今の位置にお座りになっていたようです。やっぱり「大の字岩(?)」の上に不動のままお座りになっていたのでしょうか。不動明王は、大きな岩の上に据えられていることが多いとも感じます。今もお不動さまの上には井筋が回っているのが見えています。明治初期にはこれを勝間井堰と呼んでいた記録がありますが、伊東伝兵衛が開削(「発開」)に関わっていたようです。同じ明治初期の絵図を見ると、原勝間から非持への道はこの勝間井堰の水路を横断し、大明神と呼ばれる山室川と三峰川合流点(筥淵)付近に降りていたようです。その古い道から岩の上のお不動さまを見上げていたのでしょうか。
明治初期の河合村絵図
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
勝間井堰についての記載
長野県町村誌
改めて、守屋貞治の作とされる、お不動さま「大聖不動明王」を拝見してみましょう。火焔光背が思ったより大きく、お不動さまのお顔が光背のほぼ中心を占めているのがわかります。全体としてはシンメトリー(左右対称)なのですが、細部をよく見ているとアシンメントリー(左右非対称)が際立ってきます。まず光背の火焔は向かって右にやや大きく膨らんでいるように見え、台座はおそらく地山から割り出し、採石した花崗閃緑岩の自然石で天端に表面加工がなされたものと推測しますが、その左右のバランスも非対称です。不動明王のひとつの特徴である右手のソード(剣)と左手のロープ(羂索)の持物と持ち方が異なりますが、拳の握り加減は同じぐらいに感じます。木彫の丸彫りの不動明王だと腕や肘の開きにもう少し自由度が見られますが、手のあたりの石仏の納まりとしては、とても安定的でありながら、仏像の儀軌に沿った表現を達成しています。
守屋貞治の文化文政年間の作とされる「大聖不動明王」(2021.12.11撮影)
しかし、お不動さまの問題は、ご尊顔にあると思われます。如来クラスや観音クラスになると徳も高く、目は閉じられたり、いわゆる「半眼」と言われるような半開きになるわけですが、明王は見開らかれた眼をもつ像容が一般的なのかもしれません。まだ悟りに達しておらず、いろいろ煩わしいことに心も体も動かされてしまって、中心線の左右で均整が崩れ、荒れた形態になっているとも言えそうです。
不動明王の口元はへの字に歪められ、怒ったような顔(忿怒相)を表していますが、その牙(犬歯?)も左右で非対称になっているのがわかります。お顔の右(向かって左)は上顎から突き出し、左は下顎から上に向かって突き出しています。この口元のパターンやルール(儀軌)はそれほど強いものではないので、不動明王にも色々な牙の出方がありますが、左右が上下逆というのは、形やデザインとしては、面白く感じられます。
また、お不動さまの髪型もよく見るとアシンメトリーでちょっとオシャレな感じがします。全体としては不精で簡単な総髪に見えるのですが、頭部の左側に(向かって右側に)いわゆる弁髪を垂らしているところに、不動明王像の正しい理解と石仏表現へのアレンジが感じられます。
そして、また眼の話に戻りますが、この貞治の「大聖不動明王」の眼は開かれているでしょうか。そこがよく見てもらいたいポイントです。右眼(向かって左)は黒目(角膜とその中の瞳孔)が彫り出されているので、見開いていると言えそうです。一方の左眼はどうでしょうか。ここがよく分かりません。200年近い年月を経る中での風化もあってはっきりは見えませんが、左眼の方は、どうも右眼と違う様子をしているようなのです。
この守屋貞治のお不動さまの眼は、「天地眼」あるいは左眼の眇め(眇目)を示していると思われます。牙と同じように右目は上向き(天)に、左目は下向き(地)にという左右非対称です。ここで気になるのは山本勘助です。彼は眇目、斜視、あるいは隻眼としてその姿が伝わっており、最近のテレビの実写の時代劇では、勘助に眼帯を着けて登場させる例もあるようです。
1987年のNHK大河ドラマとなった「独眼竜政宗」の第2回では、幼少期の政宗(梵天丸)が不動明王像の前で「梵天丸もかくありたい」と呟いたことが話題となりました。ドラマの不動明王は両眼を見開いた像が使用されていましたが、おそらくセリフの意図としては、不動明王の眇目が念頭にあったはずです。また、政宗の菩提寺は瑞巌寺ですが、その前身ともいえる天台宗延福寺には、五大明王像が安置され、その像が現在の五大堂に秘仏として祀られています。五大明王の中心的な存在は、もちろん不動明王です。また、大河ドラマでは大滝秀治が演じた虎哉宗乙は、武田信玄が存命の頃に甲斐国で学んでおり、西郷輝彦が演じた片倉小十郎の祖先は、高遠を含む伊那の地からやってきたと伝えられています。「不動如山(動かざること山のごとし)」も信玄の旗印であったこともよく知られています。
不動明王の信仰で有名なのは成田山新勝寺ですが、不動明王信仰にはいくつかのバージョンがあり、「勘助不動」などとして不動明王と山本勘助を合体させて祀っていることも、勘助ゆかりの地などでは見られます。高遠勝間のいわゆる大明神の「大聖不動明王」の石像は、勘助不動ではないと思いますが、これを刻んだ貞治の頭には、流布された勘助のイメージもあったのかもしれません。
美和ダムからの眺望、奥に二児山や入野谷山が見えている(2021.12.11撮影)
余談となりますが、月亭方正氏がギャグとして不動明王の眇めに近い表情を作ることがあります。左眼をつぶり、右眼を見開き、口を歪ませる不動明王の形態模写と言ってよいでしょう。また、ハリウッドザコシショウ氏は、「キン肉マン」のキャラクターで、悪魔超人として知られるアシュラマンの「忿怒」相でツッコミのようなモノマネ芸を披露しています。そして、同じくザコシ氏には「ハンマーカンマー」と言いながら古畑任三郎のモノマネをする芸があります。あの表情と仕草はどこか不動明王を思わせるものです。あの妙なカツラも、前髪の巻毛がお不動さまの総髪にあたり、長い後ろ髪が弁髪にあたるとも言えそうです。
古畑任三郎を演じる田村正和は、右手の人差指を不動明王の持つソードのように立てながら、こちらに振りかざし、左手は軽く握りながら腰に当てたり、その付近で動かし、セリフ回しを行っています。左半身をやや引く半身の体勢で、左右非対称なポーズをとる黒ずくめの姿も不動明王スタイルとも言えるのではないでしょうか。不動明王の色は「青黒い」ともされています。さらに、田村がかつて演じた眠狂四郎の円月殺法の刀使いをよくよく見ていると、敵に斬りつける瞬間に右手一本で日本刀を使っていることがわかります。これはリーチ差をより長く取ることで、自らの間合いを確保しながら敵に刃を斬りつける手段とも考えられます。右手のみで刀を振るう際に、左手は腰の鞘付近でバランスをとっているように見えます。眠の立ち姿は、古畑任三郎のあのポーズとも重なり、不動明王の両手の非対称な配置にも通じています。ザコシ氏(のモノマネ)、古畑、眠らは、勘助、独眼竜と同じように、みながみな、不動明王のバージョン(変種)であるというのは言い過ぎでしょうか。
騎馬戦術を得意とした信玄のように、馬上での戦いでは、刀剣(ソード)を右手で振りながら、馬の手綱(ロープ)を左手で操作していた可能性があります。不動明王の原型ともされるヒンドゥー教の最高神シヴァは、ナンディンと呼ばれる聖牛に乗っていたのだそうです。つまり、不動明王自体や信玄が信仰した諏訪大明神ですらも、何か別の信仰の変種であった可能性もあります。
「ハンマーカンマー」について書き忘れていました。この不思議な面白さのある語は、チャンバラトリオの南方英二から伝授され、インスパイアされた語だと説明されています。南方も、右手に持つハリセンのせいか、だいぶ不動明王寄りなキャラに見えていると思います。因みに、不動明王の種字(最小限の呪文、真言)は「カンマン」であるとのことです。少し長めの真言は「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」で、最後の「カンマン」とその前の「ウンタラタ」あたりに、「ナントカカントカ」という意味での「ウンタラカンタラ」という語の由来があるそうです。本当でしょうか。