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五常


皆様こんばんは!

もうすぐ2020年も終わりですね。

本当に時間が過ぎるのは一瞬です。

私はこのまま、あっという間に死に床に至ってしまいそうです。

もはや、毎日、明日死んでしまう気持ちで生きなければいけないと改めて思います。

今週は、孔子が残した言葉である、君子という最も徳の高い人物になるために必要な五常(仁義礼智信)という観点で自分自身について思い出しながら書きます。

1. 徳の根本としての「仁」


本来は、最も自分に近い人を最も思いやり、仁を尽くさなければならないとの教えですが、改めて振り返ってみると現状では十分に実践できていないと感じています。私は、特に父親に対してこれといった孝行ができたと自信を持って言えないからです。この事について自分の内側を探ってみると、父親は生来大酒飲みで、子育てに関しては放任主義、休日は寝て過ごし、酔っては母親と口喧嘩を繰り返すような始末であったため、思春期には随分と反抗したものでした。

 それが原因か、大人になっても奇妙な気まずさから孝行といった孝行を行う事が長い間できていなかった事によると思います。本人は七十歳を迎え、現在も変わらず大酒飲みではありますが、性格的にはかなり大人しくなったように思います。思い起こすと私が十分に孝行できてい真の理由は、もっと人生が上手くいくように生き方を教えて欲しかったけれども、アドバイスを教えて貰えなかった事による喪失感と大酒呑みである父に対して尊敬心を持てなかった事が原因ではないかと考えます。


 私の父は小学生に上がる前に父親、つまり私の祖父をバイクの交通事故で亡くしております。その為、祖母は戦後間もなく物資も不足している昭和初期に一人で農作業や日雇いの仕事をこなし、私の父とその妹を育て上げました。その時の祖母の苦労は相当なものだったと思います。そして、父親は父という存在を知らずに育ってきました。成長の過程で父から人生の生き方を教えられた訳ではなく、自らで自分の道を切り開いて、高校卒で郵政省に就職し定年まで勤め上げました。

 自らが父親からどのように教えられたかが分からない為、自分の子、つまり私に対してどのように接して良いか分からなかった部分と、迷いながらでも自分で自由奔放に人生を生きてきた結果、放任主義になったのでは、と母親は教えてくれました。

 しかしながら、父は人に対する道徳心は持っていたようで、よく自宅で晩酌をしながら「人には迷惑を掛けるような人間になるな!」「自分の好きなことをしろ!」と小学生の頃の私に繰り返し話していたことを記憶しています。
 私は日常生活の中で、生来人見知りをしない性分ですので、気軽に見知らぬ人でも困っていたら声を掛けたり、電車で子供連れの親に席をゆずってあげたりする事があります。しかし、他人にはスムーズに慈しみをもって接することができるのですが、特に父親に対してはこれといった孝行ができたとは言えません。つまり、仁の根本である、親を敬い思いやる「考」と「敬」、ができていない、と云う事になります。それゆえ、今後、私が最も優先的に取り組まなければならないことは「考」となります。大酒のみで、放任主義ではありますが、毎日夜遅くまで仕事し何十年も勤め続け、自分を生み育ててくれた親に対して「敬」の気持ちを持って孝行を実践しないといけません。

 今までは照れくさくてなかなか言えなかったことを伝える事や、もう少し実家に帰る頻度を増やすなど、「考」という根本の部分をしっかり行い、そして兄弟や、家族、そして周りの人に「仁」を意識して実践していくことが自分自身の成長に繋がると思います。

2.良心に随う-「義」

「利を見ては義を思う」との言葉通り、人間は利益を求めたがります。しかし、その利が義にかなったものであるかを良く考えて行動に起こさなければなりません。
 自分の人生を振り返ってみると、過去に利益ばかりを求めて、義のない仕事を実行した事が幾度かあったと思います。ことわざである、「勝てば官軍」という卑劣な発想に近い行動をした事もあったこともあります。

 しかし結局、目論見は外れ失敗してしまっているのです。これはまさに義を重んじず、利だけを見て行動をとってしまった結果です。このように若い頃から論語を学んでいれば、この年齢になるまでにもっと早く気づけていたであろうと反省しております。
 これは「勇を好みて、学を好きまざれば、その蔽や乱あり」の言葉通り、当時の私のように道理も学ばずに行動だけをとってしまうと、乱れてしまうということを身をもって知ったのであります。 

 だからこそ、これからは利を見ては義を思うと云う事を常に念頭に置いて行動していけば、今までと全く違う世界に行けると思います。

3.人間関係の根本-「礼」


 礼とは集団で社会を形成する全体と全体を構成する部分、また部分同士の間にある秩序と調和を保つ働きです。また、心の世界における「仁」に対して外面に表れるのが「礼」であります。
  この「礼」に関しては、私は関西出身ということもあり日常生活で見知らぬ人に対しても、気兼ねなく挨拶をすることや、笑顔で接すると云う事を常に実践しています。特にコンビニエンスストア、飲食店においてサービスを受けたらその方の仕事に対する姿勢を敬い、「ありがとうございます」と一言、言うようにしております。
 現在は関東に住んでいますが、1点驚いたことはこちらでは関西に比べて、スーパー、飲食店などにおいてお礼を言う人が少ないと云う事です。

最近、スターバックスでコーヒーを受け取る際に立派なビジネスマン風の方が挨拶もせず、無言でコーヒーをマラソン選手のように素早く掴み去っていく場面を見てしまいました。

こちらはお客様だからといってお礼の挨拶ができないと云う事は、人間として礼を欠いていると言えます。当人は仕事が忙しく礼に勤める事を忘れているのかもしれません。しかし、私は自らの周囲に礼という徳を実践するように努めて、広めていきたいと思います。

4.「智」の徳

表面的な知識ではなく、心の豊かさと実行力を伴った「智」を持つ、という事について、知識はインターネットなどで簡単に調べる事ができますが、単に理屈だけでなく人間の徳から発する「智慧」というものは簡単に会得できるものではありません。
 この「智慧」について、私はまだまだ未熟であると考えます。その為には先ず、古人の素晴らしい徳慧や体得したことを学び、英雄哲人に習うことで師友を得なければなりません。

 この部分はこのSBI大学院大学での学びで知る事ができた孔子、安岡先生、森先生、北尾先生の教えを習い、実践に生かすことで身に着けて行きたいと思います。私は本学院を選択した事によって、ようやく人間として正しい道の入口にようやく入れたと心底嬉しく思います。

5.不変の徳としての「信」

五常の最後の徳は「信」です。

人間社会で生きていくためには
必要不可欠なものであると思います。それは現代の社会が成り立っているのは人が人を信じる事ができるからこそ、成立しているためであります。国、家族、会社、友人これらはお互いの信用の元に存在しているものであり、信用を無くしては成立しないと云う事になります。
 私は人を裏切らない、という点では正しいことができていると考えていますが、より広い世界で信用されているか、と言いますとまだまだ足りないと思います。この部分については五常に始まる徳を研鑚していくことでおのずと周囲から信を得て、さらにもっと広い社会からも信用される人間になれると確信しております。先ず実践すべきことは身近なことからでも正しい行い、基本である五常を実践し、自分の運命を良い方向に変えていかなければならないと考えています。


皆さんも、今の自分を五常という観点から振り返ってみるとどうでしょうか?

勿論素晴らしい生き方をされていると思いますので

是非、ご家族や友人、職場の皆さんにも広めてみては如何でしょうか?

一人ひとり、優しくて徳のある人が増えれば

世間で日々、視聴率稼ぎの為だけに放送しているニュースも減るし、

世の中が少しでも明るくなると思います。

やっぱり暗いより明るいほうが幸せです。

そのような人が少しでも増えるように願うばかりです。

それでは、皆様、今週もコロナに負けないよう、基礎免疫力を高めましょう!

私はここ3年ほど、インフルエンザ予防接種を受けていません。しかし、

一度も罹患していません。それは、納豆や生姜とニンニクばかり食べているからです。皆様もぜひ、この時期は栄養を摂る事を意識してお過ごしください。

長々とお読み頂きありがとうございました。


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