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桜花2ラバウル編1

 全身に圧し掛かる熱波に、体中の水分が吸い出されていく。風呂上がりでも、これほど皮膚から水滴が滴ることもないだろう。涸れる気配もなく、体から溢れ出る汗は、足元に茂る芋の葉に降り、薄く積もった灰に滲む。しかし、それらはすぐさま、天から注ぐ鋭利な日差しのために、蒸発した。
 山崎は、畑から泥まみれの顔を上げ、スカーフで顔を拭った。肌着はすっかり濡れそぼって背に張り付き、日焼けた肌が薄く透けている。季節の廻らぬ南の島の重たい湿気を背負って、彼は畑の中、茂る芋の葉の波間に立っていた。輪郭のはっきりした影が、足元の葉の上に落ちている。この時代の若者の憧れである、海軍航空隊の白い絹のスカーフは、泥と汗と灰とを吸った雑巾になって、首に巻かれていた。
 彼らが育てている芋の成長はひどく早い。同じ島に駐屯している陸軍の、農家出の兵から教えを請いながら、海軍でも自給自足のために芋畑を耕し始めたが、焼酎すらも作れる余裕が出てきたほどの豊作ぶりである。火山から舞う灰をものともせず、子供の掌のような葉は、太陽を求めて広がっていく。
 その大きな葉に体を埋めて、杉本は雑草を引き抜いていた。長く伸ばした黒髪を鉢巻きで押さえこみ、滴る汗を時折犬のように身震いして振り飛ばす彼は、鋭い舌打ちと絶えることのない文句を、土に向かって吐き出している。
 山崎は、杉本の呪詛を聞きながら、濡れたスカーフを絞り、再び首に巻いた。少し背伸びをして杉本の後方を探ると、麦わら帽子が濃緑の波に浮かぶようにしているのが見える。
「疲れないか、純矢」
 麦わら帽子が傾いて、芋を手にした純矢が機敏に立ち上がった。
 軍手から覗く手首が、わずかに日焼けを逃れて白いが、純矢の腕や顔はすっかり浅黒くなっている。色白な彼の肌は日差しに弱く、ここに来た当初は、彼の持つ軍刀の鞘と似た色合いになってしまったのだが、今ではすっかり南方の陽光を克服していた。だが、手袋をすることの多い手などは色素が薄く、杉本らに女のようだと揶揄されて、喧嘩になることもある。
「隊長殿、煙草でありますか」
 畑の中で直立不動を保つ手には、泥の付いた芋が握られている。
 ここは、ラバウルにある海軍の航空隊基地だ。
 ラバウルは、パプアニューギニア領の都市で、日本軍はここに堅牢な要塞を築きあげ、東南方面への一大拠点としていた。
 配置されている主力戦闘機は、最新鋭の零式艦上戦闘機である。零戦を落せる敵機は未だに存在しない。このため、連日続く空戦で搭乗員たちの疲労は溜まってはいるものの、士気は高揚し、連合軍を震え上がらせていた。
 だが、精神力だけではどうにもならない事態―食糧不足が続いている。補給路を確保する前に戦線を広げたため、前線の彼らは、いつでも何かしらの物資を不足させて喘いでいた。海軍は、自身で輸送手段を持っているために、さほど苦労はなかったが、陸軍の方は悲惨である。いつ何時友軍機が飛来するかもしれない海軍の航空隊は、自前の輸送力に頼って、余裕のある分量を保持しているのだが、陸軍はすっかり干上がっていた。何万という兵を養うための食糧調達は、彼らにとって悩ましい問題の一つであり、自給自足体制を組んでなおも限界があったのである。
 そこで陸軍は、多くの農村出身の兵に指導をさせ、芋や米など食い物になる植物を計画的に栽培し、貯蔵し、細々とした農業生活を営み始めた。海軍でも、多少の危機感と上層部の意向もあって、陸軍から指導を仰ぎ芋を育て始めた。部隊にいた農家出身の兵士が陸軍へ出張していき、道具の貸与や栽培技術を伝授してもらう。そして、滑走路脇のジャングルを開墾してそこを芋畑にし、若い腹を膨らます役を担った。成長の早い芋は、あっという間に畑を緑色に塗り替え、食卓には蒸かした芋が並んだ。味噌汁にその欠片が浮いていることもある。割ると黄色であったり紫であったりする断面から湯気があがって、杉本などは毎日出されるそれに辟易していたが、純矢は黙々と食べ、哨戒時にも、鞄に芋を一つ忍ばせて飛ぶほどであった。
 畑仕事は当番制である。戦闘機の搭乗員には、頻繁に順番は回ってこないのだが、緊張の続く空戦の気分転換になるという提案で、疲労の濃い者を除き、各中隊から数名ずつが選ばれて、半日農作業に従事することになっていた。
 今日の当番は、第二〇六空の搭乗員である山崎と杉本、そして純矢だ。部隊に数えるほどもいない、熟達の戦闘機乗りである三人が、そろって畑仕事に出るというのは、戦力的に無駄であるため、提出された畑当番表を見た飛行隊長の総司が、さすがに難色を示したのだが、変更されることはなかった。
 山崎でなければ杉本を使いこなせないと、総司の人員変更要望に、士官らが誰も首を縦に振らないのである。特に、杉本と畑に出たことのある少尉が強硬に反対した。
 誰一人として、杉本と純矢、この二人の下士官を従えようとしない。
 特に杉本は、当番の日は決まって機嫌が悪かった。
「戦わず、畑で芋掘りをするのは、戦闘機乗りのすることではない」
 などと不満を露わにし、周囲に投げつけるように雑草を引き抜く。畑を作る際にも、
「空腹なんか根性で何とかなる。だから芋堀りなんか無用だ」
 机を割らんばかりに叩いて反発し、総司を大いに困らせた。
 そこで山崎が、当番長を買って出たのだ。
 彼は似合いもしない頬被りをし、鍬を手に下士官室にやってきた。そして、不貞腐れて作業の準備をせず、寝床に転がっている杉本の顔を覗き込み、
「お前、痩せたか」
 返答をしない杉本の頬の肉を、山崎は摘み上げて眉を顰めてみせる。
「痩せた、これは痩せたな、杉本。栄養不足だ。海軍航空隊の搭乗員が、栄養失調による集中力不足で戦死する恐れがあるぞ、これはいかん。おい、純矢。お前もそう思わないか」
 上官の、邪気のない透き通った瞳に杉本は圧倒された。何事かを言おうとすると、腹を摘ままれ、頬を引っ張られ、痩せたの連発である。ついにはろくな抵抗もできないまま、畑へと引っ張り出されてしまったのである。
「隊長、腰が痛いです」
 暑い日差しの中、雑草取りをさせられている杉本は、声を絞り出すようにして山崎に訴えた。しかし、山崎が畑仕事を免除することは決してない。決まった時間にならないと、兵舎にも戻らせてくれないのである。目が回るとごねれば、頭から水を被せられ、
「冷えたか? 気持ち悪くなったらまた言えよ」
 と、手厳しい。課せられたことから逃げようとする時には、容赦ない上官であった。
 この日も、山崎は杉本の苦情に振り向きはするものの、日に焼けた頬に流れる汗を拭い、優しく微笑しているだけである。これ以上しつこく不調を訴えれば、按摩と称して後々どんな痛い目に遭わされるかもしれず、杉本はついに無言となり、芋の葉に顔を埋めた。
 相手が橋本や村山であれば、杉本は早々と畑仕事から離脱して、整備員と共に愛機をいじり始めるところだが、山崎は同僚でもなければ、軽くあしらえる上官でもない。生意気だと殴ってくる士官の方が、杉本には御しやすいのだが、楽しそうに、そして心底嬉しそうにして部下を構い、あれこれと世話を焼く山崎は、反抗をするとますます嬉しそうにするものだから、暴れて喧嘩を売る気力も削がれた。

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