
桜花2 ラバウル編10 完
戦争が始まり、晩秋の内地を慌ただしく出、常夏の南方戦線に降りたってから、ともすると祖国の季節を忘れそうになる。ヤシも芋も食べ飽きて、時折出される手作りの味噌の風変わりな味に歓喜したものだが、近頃はそれも出なくなった。
当初は華々しい活躍を見せた第二〇六空は、ガダルカナルの米軍侵攻以降、相次ぐ搭乗員の戦死と基地への激しい空襲によって、陸攻と零戦とを失い、遂に編隊を組むことができなくなってしまっていた。幾度か他部隊からの応援を得てはいたが、状況はどこも等しく苦しいもので、激しい消耗戦を強いられ続ける彼らは、熟練搭乗員も新米搭乗員も平等にその数を減らしていく。
その間にも、連合軍は日本軍の駐屯する島への上陸作戦を成功させ、彼らは玉砕を遂げていった。
初めは聞きなれなかった玉砕という言葉も、今ではすっかり馴染んでしまった。純矢などはその報を耳にすると、陸軍としての経験による全滅というものの感覚が、海軍より一層研ぎ澄まされているために、不快そうに眉根を寄せたものであったが、もはやどんな反応も見せず、元々戦況に対して批評や不満を表立って披露することもない下士官であったから、黙々と日々の作戦をこなしている。
そんな純矢に、杉本は少なからず反感を抱いていた。戦線を維持できず、兵站もままならぬ自軍の不甲斐なさや、死んでいく仲間らへの哀切といったものが皆無である純矢が、劣勢の空へ飛び上っては、涼し気な顔をして戻ってくるという、そんな態度に八つ当たりに似た反発があった。
だがそれとは別に、状況に波立たない純矢の振る舞いが、杉本にも安定をもたらすものともなっているのも否定しきれなかった。山崎が申し訳なさそうにそのことを自白した時、杉本はその感覚を理解できずにいたのだが、山本五十六司令長官戦死の報に触れた時、その妙な安堵を杉本は自覚したのだった。
実際の戦死と、知らされた時期のずれ、その双方に部隊全体が騒めき揺れて、失望感と心身を重く浸食していく敗北感が基地を支配したのであるが、純矢は顔色一つ変えずにいたのだった。
さすがの杉本も落ち込んで、寝床で突っ伏していると、純矢が蒸かした芋を持って下士官室に入ってきた。
それを大事そうに食べている様子に、杉本はいら立って跳ね起き、喧嘩腰で食ってかかる。
「貴様、長官機が落されたんだぞ、芋なんか齧ってねぇで、なんか思わねぇのかよ」
「何かとは、何か」
「俺が聞いてるんだ、今の状況をどう思うんだよ」
「敵がいるから殺すだけだ」
何が起きても、どんな状況になろうとも、単調である純矢の態度は、一種の信仰対象のようになっていた。闘争心旺盛な、不屈の精神というわけでもないそれは、心配を抱く側を冷笑しているようにも見えた。
しかし、その純矢に転機が訪れる。
昼夜問わない大規模空襲は一層ひどくなり、抵抗を試みれば、中隊長も小隊長も未帰還機になる。それでも敵は絶えることなく、大量の爆弾を基地に降らしていった。休みになるのは天候の悪い日だけで、ついにはこちらの応戦がないと見るや、敵は同じ時間に飛来するようになった。基地ではそれを皮肉って定期便と呼んでいる。食糧も不足し、なおも奮闘しようとする搭乗員らであったが、燃料も零戦もなくなって、哨戒のため単機で飛ぶ以外、戦場である空にすら、飛んでいけなくなってしまった。
撃たれるだけになった日々の中で、第二〇六空は第五〇三空と名を変えて編成しなおされることになった。そして一度内地に戻り、立て直しを図るという。
指揮所に全員が集められ、それが達せられた時、杉本は脱力し、滑走路に足が張り付いたようになって動けなくなってしまった。膝が震えるような心地がし、歩き出せばその場で崩れてしまうようだった。
「日本に帰る」
杉本の背後にいた純矢が、総司の命令を無感動に繰り返した。純矢の口から祖国の名を耳にして、杉本は懐かしさと同時に強烈な孤独に襲われ、眩暈すら覚える。
―日本
杉本の胸中で時間が急速に巻き戻っていき、激しい無念が押し寄せ、彼を打ち、暗い奈落へと流そうとするようだった。
橋本や羽田らと共にいたあの頃、厳しい訓練の中ですら楽しかった。料理屋に通って騒ぎもしたし、酒を飲みすぎて悪さもした。その一つ一つの光景が体の芯からこみ上げてきて、溢れる涙を堪えきれない。
懐かしい彼らの顔が、泡のように膨らんで、弾けて消える。
整列する搭乗員の中に、彼らはいない。すっかり仲間達は入れ替わっており、一番長く共にいるのは総司や山崎のみである。共にやってきた他の士官はおらず、彼らは数少ない貴重な士官だった。もうじき杉本が特務士官に上がることになっている。開戦の年に合流した純矢ですら、古い戦友の部類に入る。
日本に帰ったら、橋本たちの馴染みの女になんて告げようか、確か羽田は惚れた女がいたはずだった、その前に、家族にどう手紙を書いたらいいのだろう、と杉本は喪失感に痺れた思考で懸命に考える。何も残らぬ搭乗員の死を、空で死ねなかった者の無念を、どのような形にしたらいいのだろう、最後を見た者ならいざ知らず、飛んで行ったきり、顔を見ないままとなった友の死を、杉本ですら、未だにまだどこかで生きていると思っている節がある。
出撃前に交わす他愛のない話や、見送りのために振られる帽子の光景は、虚しく瞼の裏に流れていく。熱帯の病に倒れ、それでも休んではいられないと、無理をして飛び立ち、誰一人帰ってこなかった。愛機を丁寧に整備してくれた整備員も、その何人かは爆撃で戦死してしまっている。
自分だけが生き残っている、その上自分は日本に帰るというのである。その事実があまりに怖く悲しくて、何か罪を背負ったような気になり、杉本の足は竦んで動けなかった。
解散後、一人残った杉本は、やっとの思いで滑走路に振り向き、穴だらけの風景を眺める。
「俺、日本に帰るんだってよ」
一緒にここから飛び立ち、帰らなかった戦友たち、この地に倒れた戦友たちに、杉本は声をかけるようにして言った。
「帰るのかぁ……本当に」
そんな杉本の悲哀の前に、熱帯雨林の中から一人の陸軍兵士が姿を現した。
戦死した仲間の懐かしい光景は、脆くも吹き飛んだ。兵士は開けた視界に驚いたようで、だが、すぐさま何かを探すように周囲を見回した。武装をして海軍の基地に来る陸軍兵は珍しい。いつもであれば、農作業の教えを乞うといった体での接触であるから、彼らは気楽な服装でやってくる。銃を担ぎ、銃剣を腰に差し、草を差し込んだ鉄帽をかぶり、水筒と背嚢―まるで墜落した杉本を探しにやってきた純矢のようであった。
杉本は目を凝らして兵を見た。黒々とした肌は日本人と思えず、しかしその痩せこけた腕と頬、汗と湿度のために、体に張り付いている軍服は、日本陸軍のものであった。銃を担ぎなおした彼は、ただ一人滑走路に残っていた航空服姿の杉本を見つけると、それが探していたものであるかのようにして、迷いなく真っすぐに駆け寄ってきた。杉本は逃げ出したかったのだが、背を向ければ銃で撃たれる気がして、その場に留まった。
杉本の眼前まで来ると、兵は鉄帽の下にある目で鋭く杉本を見た。不審と緊張とで黙っている杉本に、兵士は装備を鳴らして姿勢を正し、敬礼をした。
「自分は伝令の任を負いやってまいりました。織田少尉殿はどちらにいらっしゃるか、教えていただきたくあります」
純矢とよく似た言い回しをする兵士が口にした名に、杉本は愕然とする。
「織田少尉?」
純矢が初めて横須賀に降り立った日の光景が鮮明に思い出される。
彼が陸軍歩兵科の少尉であり、海軍では一飛曹であることを皆で聞き、驚愕して彼を囲んだ場面が、杉本の脳裏に鮮明に浮かび上がる。
「織田少尉殿宛てに命令書が届いたのであります。自分はそれを届けにきたのであります」
若い兵隊は甲高い声で叫ぶ。汗を飛び散らせ、銃を肩にかけて直立不動を保っている。
「織田少尉なんていない」
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