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安政の大獄はなぜおきたのか

※以前書いていたブログでよく読まれているものをこちらに掲載しました。


吉田松陰など幕末の話を語るには欠かせない、安政の大獄。これは1858(安政5)年から約1年かけて江戸幕府が行った弾圧事件です。
幕府が行っていたことに対して反対意見を出していた人が次々に死刑や謹慎処分などされました。

幕府は?

ことのおこりはペリーによる黒船来航です。1840年のアヘン戦争で、隣国・清がイギリスに敗れた影響もあって、日本も何とかしなくてはいけないと思うようになりました。
そんな中、第12代将軍徳川家慶が死去し、第13代将軍に家慶の四男・徳川家定(※天璋院篤姫の夫)が将軍になりますが生来健康ではなかったこともあり、継承問題までおきてしまいます。
前水戸藩主徳川斉昭の七男で英明との評判が高い一橋慶喜を支持し諸藩との協調体制を望む一橋派。
血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推す保守路線の南紀派。
この2派が対立していたのです。
そんな時、米国総領事タウンゼント・ハリスが、通商条約への調印を迫っていたのです。

井伊直弼の存在

そんな中、南紀派の井伊直弼が大老に就任し、朝廷の許可なく条約調印と家茂の将軍継嗣指名を断行しました。彼は南紀派だったので、家定の後継者には紀州藩主・徳川慶福を指名したのです。
これに反発したのが、一橋派の前水戸藩主・徳川斉昭。「無勅許調印は不敬」ということで(※勅書などは朝廷の許可がないとできない)、詰問するために不時登城(※定式登城日以外の登城。行ってしまうとアウト)した。直弼は「『不時登城をして御政道を乱した罪は重い』との台慮(将軍の考え)による」として彼らを隠居謹慎などにしました。

これが安政の大獄のはじまりです。

反発したのが尊王攘夷派

このやり方に対して最初に反発したのが、薩摩藩主・島津斉彬。彼は藩兵5000人を率いて上洛することを計画したが、同年7月に鹿児島で急死したため頓挫。
そして老中間部詮勝、京都所司代酒井忠義らが上洛(※京都に行く)し、梅田雲浜や橋本左内らを逮捕したことを皮切りに、公家の家臣まで捕縛するという激しい弾圧が始まりました。この中に吉田松陰も含まれていました。

この時、逮捕などの弾圧をされたのがいわゆる「尊王攘夷派」だったのが伺えます。

京都で逮捕された志士たちは江戸に送致され、評定所などで詮議を受けました。井伊直弼ら南紀派に反対していた藩主らは蟄居がほとんどでしたが、志士たちは死刑がほとんどでした。この影響がやがて起きる桜田門外の変につながってしまいます。

吉田松陰はなぜつかまったのか

吉田松陰は過去に密航したことがあります。本来なら死刑のところ、助命され長州へ檻送された後に野山獄に幽囚されたのです。その経験が生きたのか、松下村塾での若い塾生に伝えてたのはいうまでもなく。
しかし、1858年に幕府が朝廷に対して無断で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明しました。諸悪の権化は井伊直弼、というよりも老中首座である間部詮勝の暗殺だったのです。
なぜ間部詮勝だったのか、それは交流のあった志士達を弾圧した張本人だったからではないかと。

彼はこの暗殺計画をたてても、同じような考え方をしていた久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らは反対したため頓挫。それなら、と倒幕を打ち立てたけどこれもあえなく逮捕され、かつて入ったことのある野山獄に。
その後、江戸へ江戸に檻送され、評定所で取り調べの結果、斬首刑に処されました。


幕末期をかたるとき、どうしてもこの出来事というのは外すことができません。
なぜなら、ここがキッカケで新しい出来事も起きましたし、倒幕への動きも加速し始めるからです。