生態プロセスと線造形から捉える〈絶対無の場所〉①(仮)ー書形夢醸(1)
書形夢醸ー 読んだ本の内容整理と関連づけ。あくまでも読書記録であり書評ではない、あしからず。
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日本で最初に哲学を始めた人は西田幾多郎であると言われている。東京帝大(本科ではなく選科)で学んだあと、金沢第四高等学校、学習院の講師を経て、京都帝国大学助教授に40歳で就任した。京都学派の祖でもある。
彼は宗教、特に仏教の面から広大な思想の海に沈んでゆき、やがて「述語の論理」「場所の論理」「絶対矛盾的自己同一」という概念に到達する。今回はその西田幾多郎の思想を、生体心理学の一派であるギブソン学派の「アフォーダンス理論」、19世紀の生物学者フォン=ユクスキュルの「環世界」、そしてバウハウスで講師をつとめ、線的造形を発展させたパウル=クレーの「造形思考」などから掘り下げてみたいと思う。 余裕があったらもっといろんな面から西田哲学を考えてみたい。
(※とりあえずの予定なので、西田哲学の説明とアフォーダンス理論との関連を示しただけで終わるかもしれない、ご了承をば。)
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西田幾多郎哲学の諸概念
まず、西田幾多郎が提唱した〈述語の論理〉、〈場所の論理〉、〈絶対矛盾的自己同一〉について説明しなければならない。
述語の論理とは、自分が何者であるかということを規定するときに用いる「私は~である」という文法構造を、「日本人である < 人間である < 動物である < 生物である < 有機体である…」という風に広げていったときに無限大の述語に到達するという一連のプロセスのことをいう。そして、無限大の述語とは「絶対無の場所」である。なぜこれが「有」ではないのかというと、もしそこに何かがあったのであれば、さらにその外側にそれを包むような大きい場所(述語)が必要になるからである。もしも絶対無の場所に到達することができれば、人は世界の真の姿を捉えることができる(とされる)。
次は場所の論理、場所の論理は述語の論理に類似しているといえる。人間は主語や個性(特殊)によって人間存在を規定しており、それは西田哲学においては〈自然界〉の出来事である。これは普段私たちが知覚しているごく一般的な世界であり、それだけで完結しているようにも見える。しかし、〈自然界〉にあるものだけでは我々には語りえない概念が出てくる。それは知性、感性、意思などのたぐいであり、西田はこれを〈意識の野〉と呼ぶ。そして、この下にさらに道徳心や価値観、美意識などがくる、これは〈叡智的世界〉と呼ばれる。
意識の野や叡智的世界において、我々はもはや主語や個性といった概念をもたない。叡智的世界のさらに根柢の部分に潜っていけば、やがて〈絶対無の場所〉に人は到達する。ここでひとつ加えると、絶対無の場所というのは西田が言うところの〈純粋経験〉と同じものである。純粋経験とは、〈私〉がなにか感動的な映画を見て泣いているとき、あるいは春になって満開になった桜に心を包まれているとき、あるいは日が沈んでいく憧憬に対してノスタルジーを〈感じる〉ときに生じている経験である。ここで〈私〉〈感じる〉を括弧付きにしたのは、それを真に心のうちで経験している時、〈私〉と〈私が見ている光景〉は一体となっているからである。〈私〉がなにかを見ている時、それを〈私が見ている〉とわざわざ考えている事があるだろうか。
実のところ、そう考えることもできなくはない、現にデカルトは『私』という人間存在を疑ってみるに、そこには身体や周りの情景などを消し去ることはできるが、疑っている『私』自身を消し去ることはできないと結論付けた。だから彼は、「我思うゆえに我あり」といったのであった。彼の考えに端を発して、ヨーロッパでは主体が実験観察をおこない自然環境を人間中心的に利用できるという考えが広まっていったである。
しかし、人間主体がそこにおいて在るというのは、何かに感動している自分自身をあとから振り返ってみて後付けした概念であるということである。本当になにかを経験しているときには主体という概念はそこにはなく、フッサール的な言い方をすれば〈私〉が〈物自体〉を知覚していると同時に、〈物自体〉が〈私〉の内側に現れているという事である。そして、本当はそこには私―物自体という能動態があるわけでもなければ、物自体―私という受動態もない。なぜなら、私―物自体は能動態・受動態のレベルでは同時に表出されることはできないからである。これが〈絶対矛盾的自己同一〉である。
絶対矛盾的自己同一とは、ある存在が別の存在との関係性を持つときに、同時に能動態であり受動態でもあるが、しかしそれは同時にそうであるとは言えないという事を表している。
先の述語の論理に戻ると、我々は自己の存在を否定するところに自己の肯定を見ることができる。というのも、人間はそれ自体としてひとつのカテゴリーではあるが、さらにもう一段階うえの動物というカテゴリーを採用するときに、人は人であることを否定し、動物であることを肯定する。
少々難しい言い方かもしれないが、中世スコラ学において普遍論争が起こっていたことを思い起こしてみるとよく分かるかもしれない。人間というカテゴリー自体が普遍的なものであると立証する事が、中世のキリスト教徒にはどうしても必要なことであった。なぜなら、人間存在が普遍的でないのであれば、アダムが禁断の果実を食べたという原罪を人間一般に科すことができなくなり、キリスト教の権威が失墜してしまうからである。ここに、トマス・アクィナスが死に物狂いで普遍的存在としての人間を証明しようとした理由がある。個別的で具体的な存在である〈私〉を否定してまで、彼はキリスト教の権威を守りたかったわけだ。ただしそれはあくまでも人間存在一般にのみ共通カテゴリーを当てはめるやり方でしかないので、平常底としての深度は低い。
西田哲学に話を戻すと、人間は自己の存在を否定することによって自己を肯定するといえる。分かりやすい例でたとえると、生まれたばかりの赤ん坊には自我がないとされるが、自我がないがゆえに、だからこそ赤ん坊は何者にでもなれるという可能性が残されている。これは、同じ人間であっても肩書が決まってしまった人間(学生、サラリーマン、主婦、教師、etc…)には難しいことである。なぜならば、その肩書を肯定することによって自己の存在を規定する自己同一をすでに行っているからである。
別に赤ん坊は自己の存在を規定することを自分の主体でもって否定しているわけではないが、自己肯定がないという意味では自己否定(=可能性の肯定)とイコールである。他にも例を挙げると、野球のイチロー選手が国民栄誉賞を授与されることを断ったのもその一例といえるかもしれない。彼が栄誉賞の授与を断ったのは、それによって自分自身がもうやり切ったと思うことが嫌だった(=まだ見ぬ自分の野球選手としての可能性を追究したい)からで、これも否定から生じる一種の可能性肯定であるということができる。
僕の考えでは、西田のいう絶対矛盾的自己同一とは「水が無限にあふれ出す噴水」と「水平線のない海」のようなものであると考えられる。
「噴水」とは、人間が自己の存在を否定することによって新たな可能性を切り開く装置である。(また、水を引き上げる装置でもある。)そこでは人は「AはBではない」という形ではなく、「Aは非Bである」という形で自己否定的自己肯定(否定即肯定=色即是空)を行う。西田はこれをまた「逆対応」という言い方をしている。
「水平線のない海」とは、海自体によって世界が完結しているということである。これは西田が言う絶対無の場所に等しい。なぜなら、世界のすべてが海であるならば、そこにあるのは水でしかなく、上に行っても下に行っても、右に行っても左に行っても水しかないからであり、そこに水しかないという事は、実はそこには何もないことに等しいからである。人は何かを見るときに、そこにあてられた光を通して物体を認識するが、そこにその物しかなければ、その光を反射するものの後ろに塗られているはずの色彩も知覚できないため、物体を認識することはできない。すべてが特定の何かで満たされているという事は、そこには実は何も存在しない(かのように見える=区別すべき対象がない)ということである。
人は自己否定的に自己の新たな〈身体〉の可能性を肯定することによって、何者にでもなれる可能性の鏡=水平線のない海へと沈んでいく。人間が矛盾的存在であることを知覚し、自分は何もでもないことに思い至る。そこではすべてのものが溶け合って、何も残らないかのように見える。ここで、「水が無限にあふれだす噴水」=自己同一の作業がはじめて必要になる。〈噴水〉はここで自己同一と逆対応の作用を持つ。
人間は自己を否定することによって可能性の芽を伸ばすが、それだけでは自己存在を規定できず、せっかく生まれた可能性をフルに生かすことができない。だから、絶対無の場所に到達した後、そこから一気にはるか上の方向にある水面に向かって上昇=自己同一していかなければならない。「なんだ、結局自分の存在を肯定するんじゃないか」と思われるかもしれないが、最初はまず可能性の芽を自己否定的自己肯定によって育てることが重要なのである。
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アフォーダンスと西田幾多郎
次に、ギブソン学派の生態心理学的概念である「アフォーダンス」と西田哲学の関連性について考える。アフォーダンスとはそもそも何かというと、「特定の有機体(群)が特定の環境内に生息しているとき、その環境の中の特定の対象(群)・事象(群)が、その特定の対象群・事象群との関係で特定の有機体群に対して提供する行為の可能性(opportunity )」である。(佐々木正人ほか『アフォーダンス』)
これはマルクス、フロイト、ニーチェに始まる「脱中心的」な構造主義議論に近い。(内田樹『寝ながら学べる構造主義』)。我々は普段文章を書くとき、自分自身という主体というものを仮定して行動に移すが、アフォーダンスや脱中心化議論が主張するのは、「そこに本当は主体など存在しないのではないか?」ということである。
例えば上にあげた文章を書く例でいえば、普通なら文章を書く主体「わたし」によって文章は書かれたかのように見えるが、アフォーダンス理論でいくと、紙や鉛筆、またはキーボードが我々に「書くこと」を「アフォードafford」していると認識することができる。もっといえば、「わたし」という主体は「書くこと」によって規定されるのではなく、「書かれたもの」によって述語的に、事後(結果)的に「わたし」という概念を獲得しているにすぎないのである。そこでは西田のいう述語の論理によって自己同一がなされているが、僕は一度、「もう一歩引いた視点」からこれを掘り下げてみたい。
西田の論理とアフォーダンスのここまでの議論を踏まえると、そこには「二項関係」とそれに対する「否定」が現れる。「能動」と「受動」から生じる述語的規定と、それが同時には起こりえないことであるという絶対矛盾的自己同一である。「わたし」という存在は〈母胎〉から「つくられるもの」であると同時に、この世で新しいものを製作する「つくるもの」でもありうる、がしかしそれは同時的な述語的規定状態ではありえないのである。なぜならそれは、「視点」をどこに置くかという問題によって「主体」と「客体」という二項間対立図式をそこに持ち込むことが避けられないからである。
ただし、ここでいう二項関係というのは、「かりそめの」という形容が付随するものである。なぜなら、実際に「わたし」という主体と行為が施される(かのように見える)客体は、既に「文章を書く/書かされる人」の話で示したように、同時的現象たりえていること自体は間違いないからである。さきほど「述語的規定」という言い方をしたが、これはあくまでも外部観測者的(客観的でストック的)な視点を採用した言い方に過ぎない。
「もう一歩引いた視点」ではなくて、「もう一歩内側へ超えた視点」から考えてみよう。外部観測者ではなく内部観測者(フロー的)の視点に切り替えれば、そこに同時的な場所的規定状態があると言うことは十分に可能である。場所的規定状態とは、ストックではなくフローであり、構成ではなくオートポイエーシスである。そこでは空間というものは失われている(かのように見える)が、このうちのほんの一時的(ほとんど刹那)な時間を切り取ってみればそこには空間が現れて、我々は「主体/客体」の図式を再構築することができる(必ずしもする必要があるわけではないが) 。
※(追記)「内側へ超えた視点」という言い方をしたが、これはあくまでも往還運動的な場所を意識(経験)するためのプロセスの一部であって、重要なのは視点ではなくフィードバックループであると思われる。
場所的観点とは、「主観、客観を超えたところにある第三者的な視点」などではなく、「主観と客観を意識した往還運動を、当事者(内部観測者)的立場でもって理解する」ことに由来する運動の一形態である。
(次回へ続くかも分からない)
2018/10/24