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魯迅 文学で戦った孤高の闘士
貧しき士大夫の子として
1881年、清国浙江省紹興。魯迅、本名・周樹人(しゅう じゅしん=チョウ・シューレン)は、没落した士大夫(科挙官僚、地主、文人の三者を兼ねた人)の家に生まれた。この出自は彼の人生を決定づける。誇り高い家柄のくせに貧しい。腐敗した官僚制度と因習に縛られた社会。そんな現実に、少年時代の魯迅は苛立ちと疑問を抱き続けた。
彼が幼少期に見たものは、病に倒れ、金がないために適切な治療も受けられず、無残に命を落とす父の姿だった。この経験が彼を「医者」へと向かわせた。しかし、皮肉なことに、魯迅は後に医学を捨てる。理由は単純明快――「中国人の肉体を治すよりも、その精神を治す方が先決だ」と気づいたからだ。
魯迅の家族は、かつてはそれなりの地位を誇っていた。しかし、清朝末期の政治的混乱とともに、その威光は急速に衰えていった。父・周鳳儀は官職を持たず、祖父・周福清が科挙試験の不正に関与したことで一族の名誉は地に落ちる。科挙――中国の伝統的な官僚登用試験は、士大夫階級にとって社会的成功の象徴だった。それが賄賂で汚されたとあっては、家の未来は暗澹たるものとなった。
家計は厳しくなり、魯迅の父は病に倒れた。しかし、治療を施すにも金がない。頼ったのは伝統的な中医学――民間の漢方医たちだった。だが、その治療はほとんど迷信じみたものだった。「虎の骨を煎じた薬を飲めば治る」「道士の祈祷が効くだろう」。そんな非科学的な療法ばかりが繰り返され、父の容態は悪化していく。幼い魯迅は、そんな父の衰弱を目の当たりにしながら、無力さと怒りを覚えた。やがて、父は亡くなった。彼の心に深く刻まれたのは、「無知と迷信が人を殺す」という絶望的な現実だった。
この経験が、後の彼の思想を形成する大きな要因となる。「知識がなければ、人は救えない」。そう信じた魯迅は、母の手ほどきで学問に励むようになる。当時の教育は儒学が中心だったが、彼は単なる古典の暗唱にとどまらず、西洋の知識にも強く惹かれた。特に関心を持ったのは、物語の世界だった。民間の物語や『水滸伝』のような武侠小説に心を奪われ、のちに彼自身が文学の道を歩む遠因となる。
だが、現実は甘くない。貧困ゆえに学費の捻出すら困難だった。時に親戚の援助を受けながら、彼は何とか学問を続ける。しかし、この時すでに彼の中には、「知識人とは何なのか?」という疑問が芽生えていた。士大夫とは、知識を持つ者として社会を導く存在のはずだ。それなのに、彼の父は知識がありながらも時代の波に飲まれ、無力のまま死んでいった。さらに、祖父は科挙の不正に手を染めた。知識を持っていても、それが社会の役に立たないのなら、一体何の意味があるのか?
そんな疑問を抱えながらも、彼は学び続ける。そして、貧しき士大夫の子としての運命を超えるべく、新たな道を探し始めた。彼の旅は、やがて日本への留学、医学、そして文学へと続いていく。だが、この幼少期の苦い記憶は、彼の思想の根底に最後まで影を落とし続けることになるのだった。
医学を捨て、文学へ 仙台での衝撃
1902年、日本へ留学。東京の弘文学院で日本語を学んだ。1904年、魯迅は日本の仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学した。彼はここで医学を学び、人々を病から救うことで中国を変えようと考えていた。
仙台での生活は決して楽ではなかった。異国の地で言葉の壁に苦しみ、周囲の日本人学生と打ち解けることも難しかった。日本語の習得に励みながら、授業についていくために懸命に勉強した。仙台の冬は厳しく、寒さが骨に染みた。しかし、それ以上に彼を苦しめたのは、異国での孤独だった。
それでも、魯迅は自分を奮い立たせた。父の死を思い出しながら、「医学こそが人を救う道だ」と自らに言い聞かせた。解剖学の授業では、初めて人間の遺体と向き合った。その経験は衝撃的だったが、彼は耐えた。だが、彼の信念を根本から揺るがす出来事が起こる。
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