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オムライスは恋の味

私の夫は、とても優しい人だ。

”まるで天使のよう”という、愛らしい赤ちゃんなどに使う形容詞を、私は夫に対してよく使っている。チョコボールのパッケージのクチバシ部分に、夫の顔がついていたとしても私は驚かない。と思うくらい天使味がツヨイ夫なのだ。

夫のエンジェルエピソードについては、語り出すと長くなるので割愛いたします。

以前の記事にも書いたけれど、夫とは再婚だ。このひとと巡り会えただけで、私の人生は最高に幸せだな!と考えてしまうほどの出会いだと思っている。私だけでなく、娘のことも幸せにしてくれたひとだ。

そういえば始まりはどこだったんだっけ? と、ふと考えた。

あれ、かな? たぶん。稲妻が走ったわけでも、どぼん、と沼に落ちた感触もないけれど。

おそらく、その時にわたしは恋に落ちたのだと思う。

いったいいつどこから、この人を好きになったんだっけと思い返してみると、あるシーンがそこだけ鮮明に思い出せるので、きっと始まりはあれなのだ。


***


「もし手が空いてたら、手伝ってくれない?」と、厨房から声をかけられた。デシャップの前でグラスを磨いていたわたしが顔を上げると、シェフの下で二番手として働く彼がわたしの方を見ていた。

そこは小さなビストロで、大してやることも多くはないディナー前の準備も、ほぼ終わってしまっていた。

「はーい。」と軽く返事をして厨房へ入る。彼は手に牛蒡と大きなボウルを持って待っていた。

実はそれまで、彼とはほとんど話をしたことがなかった。サービスに女性は3人いたのだけれど、その誰とも特に親しく話している様子はなく、シェフや厨房を手伝っていた大学生の男の子としか話しているのを見たことがない。それに、営業時間中は忙しくなると厳しい声でサービスの人を叱ったりするので、どちらかといえば、とっつきにくく怖い人だという印象だった。

「何をすればいいんですか?」と聞くと、「牛蒡をね、ササガキにして欲しいんだけど。やることが他にもいっぱいあってさ。シェフがいないから間に合わなそうなんだよね。」という。

「牛蒡をササガキ?」。なんでビストロでササガキ牛蒡なんて使うんだろう、ふとそう思ったので、ついそんな風に聞き返してしまった。すると「あ、ササガキのやり方、知らない?」と彼が聞いてきた。

その時のわたしは、29歳のシングルマザーだった。20代前半とおぼしき若者に「なんだササガキも知らんのか」と思われた気がして、「これでも主婦歴7年ですけど。」と、エヘンどうだ参ったかと言い返してみた。

すると彼はにっこり笑って、「それじゃあこれ、お願いします。」と牛蒡と大きなボウルを差し出してきた。

威張ったものの、プロのコックに手元を見られるのは緊張するのと恥ずかしいのとで、彼の方から見えないように背中でブロックしながら作業を始めた。

少し経って進捗状況を確認しにきた彼は、ボウルの中のササガキ牛蒡を手で掬って確認しながら「へぇー、上手じゃん。早いね。」とニコニコしている。

ササガキにそんなに技術の差は出ないんじゃ、と思いながらも褒められて嬉しくなったわたしは、「主婦をナメないでくださいねー。」と軽口を返してみた。すると彼は、ワハハと笑いながら「じゃあ、これからも手伝ってくださいね。」と言う。

あ、この人、実はよく笑う人なんだなぁ。怖い人かと思ってたけど。

その時、たしか最初にそんな風に思って、次の瞬間には「笑うと可愛いんだなぁ。」などと思ってしまっていた。

そう、あの瞬間が始まりだった。おそらく。

ごぼうのササガキがきっかけです、なんてロマンチックエピソードとは程遠いけれども。


***

「マカナイ、できたよー。」と彼がデシャップ台に皿を並べ始めた。

その声を聞いて、今日は彼が当番なのかと少し嬉しくなる。こんなことあまり大きな声では言えないけれど、シェフは気分のムラの多い人で、美味しい賄いが出てくる日と、「これ、めんどくさいなーと思って作ったでしょ。」と聞きたくなるような、ざっくりした大雑把な賄いが出てくる日があって、ジェットコースター並みの落差があった。

しかし彼は若さからか、研究熱心で情熱があって、いつも美味しい賄いを作ってくれていた。だから、彼が当番の日は絶対に美味しいものが出てくるはずで、今日は何かなーとワクワクしながら料理を取りに行った。


デシャップ台には綺麗なオムライスが並んでいる。


「わー、オムライス!」と言いながら皿を受け取るわたしに、「今日はちょっと変化球オムライスなんだよ。」と、彼はいたずらっ子のように笑った。

「変化球?それって何が入ってるの?」と尋ねると、「さーてなんでしょう。当ててみてよ。」と教えてくれない。

ごぼうのササガキの日から、少しづつ話をしたりするようになり始めていて、お互い気軽に声もかけられるようになっていた。そんなやりとりも普通にできるようになった。

休憩室のテーブルに座ってオムライスを食べ始める。

ん?んんん???

なんだこれ??食べたことない食感のオムライスだけど、とんでもなく美味しい。。。

あっという間にペロリと平らげ、厨房で仕込みをしている彼のところへ戻る。「ものすごく美味しかった!何かプチプチしたものが入ってたんだけど、あれなに?」と早速質問する。

「わかりませんか?降参ですか?」とニヤニヤする彼に、「降参です。教えてください。」とお願いする。すると「魚卵でーす。冷蔵庫で余ってたから、試しに入れてみました。美味しかったでしょ。」と、どうです俺様天才なんですといったような顔で、笑いながら答えた。

***

実は、この時のことはオムライスを食べるたびに思い出したりして、今でも彼に「あの時のオムライスは、奇跡みたいに美味しかったよ。」とよく話す。

「ねーねー、俺のこといいなぁと思ったのって、あのオムライスがきっかけ?」と、結婚後も時々嬉しそうに聞いてくる。彼は褒められて伸びるタイプらしく、常に自分のいいところを確認したがる。


けれども。

ほんとうはあのオムライスなんかよりも前から、きっとわたしは彼のことをいいなぁと思っていたんだ。

「違うよ、オムライスがきっかけじゃなくて牛蒡だよ。」と言っても、たぶんなんのことやら覚えてなんかいないだろうな。これは、わたしが墓場まで持っていく大事な大事な思い出話なのです。

だから、彼にはオムライスがきっかけだということにしてる。オムライスは恋の味。

そのほうが、なんだかロマンチックですしね。


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