海水浴と、父の水泳パンツ
もうすぐ春休みだというのに、私には春休みがない。日々お勤めに行っている方にももちろんない。まとまった休みは盆と正月、そしてゴールデンウィークくらいだろうか。でも世の中のお母さんにはそれすらない。家に家族が一日中いる、ということは仕事が増えるということで、言うなればお母さんの繁忙期だ。まったく。誰か長期休暇ください。
子供の頃の一番の楽しみは、もっとも長い夏休みだった。長い分、宿題もたっぷり出るけれど、それよりも毎日早起きしなくてよくて、漫画を読んだりゴロゴロしたりプールに行ったりして一日過ごせるのが最高だった。
そういえば、私は子供のころは海水浴が大好きだった。
***
東京の、海から遠い地域に住んでいたので、海水浴に行くにはたくさん電車に乗らなければならなかった。父は運転免許を持っていなかったから、家族旅行はいつも列車旅だ。
週末にデパートへ行くときに乗る地元の電車から、見慣れない色の車両に乗り換える。窓から見える家と家の間隔が広くなって、緑の分量が多くなってきた頃あいに、また違う電車に乗り換える。
その駅のホームで、わたしは大きく息を吸い込んでみる。がんばれば海の匂いがするかもしれないからだ。一生懸命鼻をふくらませている私の前に、ゆっくりとガタゴトと、初めて見る電車がやってきた。
その電車の座席は、地元の電車とちがって横並びに座らない。グループごとで部屋が分かれるみたいに、家族で向かい合って座ることができた。横並びだと知らない人が目の前にいたりして緊張してしまうけれど、その電車では父と母が、あるいは兄か妹が目の前にいるので安心だ。
興奮して窓の外を眺めたり、電車内をキョロキョロ見回してみる。自分と同じように、透明の水泳バックを持っている子を発見して、うれしくなる。
お父さんお父さん、あの子たちもきっと海だよ。海に行くんだと思う!
父は「そうだねぇ。」と言って笑い、母は「少し静かにしなさい。」とたしなめる。
まだつかないのかな、と退屈してきた頃、父が「次で降りるから支度しなさい。」と私たちに声をかけた。それを聞くや否や、私と妹は立ち上がってドアまで移動した。海見えるかねぇ、見えないねぇ、と言い合いながらドアが開くのを待ち構える。
ドアが開いたらきっと海の匂いがする、と思って待つ。
ホームに着くと、家族分の荷物をすべて持った父は、ゆっくりと電車から降りて、ヨイショと言いながら荷物を掛け直し、ゆったりゆったり歩く。
待ちきれなくなった私は妹を誘って、さっさと先に改札をくぐった。
お父さん、どっちーっ? 目の前で二手に分かれている道を指さして振り返る。父は答えてくれない。待て、を指示するように目で私たちを制止して、のんびりとやってきた。
「勝手にどんどん行かないこと。」静かに注意されて、私と妹は父の両脇にくっついて歩く。少しでも早く歩いてくれるようにと、押したり引っ張ったりしながら。
木が沢山植えられているのが見えてきた。その向こうから、強くなった海の匂いと波の音、小さな歓声のようなものが聞こえてくる。
その手前に数軒の小さな商店が並んでいて、横を通るときにぶら下げてある浮き輪がゆれて、ビニールの匂いがした。
足元の感触が砂のそれに変わる。もうここまで来たら大丈夫とばかりに、私と妹は手を繋いで海をめがけて走りだした。
***
ここにしよう!
波打ち際の近くにぽかりと空いた場所をみつけ、他の人が入ってこないように仁王立ちして父を待った。離れたところから「こっちへ来なさい。」と父は大きな声で呼び手招きする。
せっかくいい場所をみつけたのに。ガッカリしながら、誰かに取られてしまわないか心配しながら、妹の手を引いて父のところへ走って戻った。
父と母は、呼び込みのおじさんに誘われるまま海の家へ入っていく。
あーあ、嫌だなぁ。私は海の家が嫌いだった。外は明るくてキラキラしているのに、ここは暗くてつまらない。畳が砂でジャリジャリしているのだって気に入らない。いちばん気に入らないのは、父が畳にごろりと寝転んで「ひと休み」してしまうことだった。
早く海に入りたくて、父にまとわりついて起こそうとする私に、「お父さんは疲れたから後で行くよ。お母さんと行ってきなさい。」父は目をつぶったまま言った。
急いでワンピースを脱いで、下に着ていた水着姿になった。汗をかきながら浮き輪を膨らませると、中へ足を突っ込みウエストまで引き上げて、そのまま海へ飛び込む気マンマンで母を急かす。
***
ねぇ、見ててー! 母がこちらを見ているのを確かめてから、波打ち際で小さな波に乗ってみせる。ひっくり返って砂にまみれてケラケラ笑う。
お母さんも入ればいいのに、と誘ってみたけれど、「水着じゃないし、日に焼けたくないから。」とワンピースに日傘姿でつま先だけ濡らしている。妹はまだ小さくて一番浅いところでしか遊べない。母の足元で砂を集めたりして喜んでいる。
水泳教室で一番上の選手クラスにいる兄は、とっくに一人で泳ぎに行ってしまっていた。兄と一緒には行けず、さりとて妹と砂遊びはつまらない。もう少しだけ深いところに行ってみたいなぁ、とつまらなくなっていた頃に、海の家の方から父がのっそりのっそり歩いてきた。
父の水着は「あずき色」で、妹とわたしは「あんこパンツ」と呼んでいた。そんな色の水着は珍しかったので、あんこパンツは遠くからでも父を見つけるのに役立った。
あ!お父さんがきた!
わたしの海水浴がいちばん楽しくなる時間だ。父はわたしのそばまでやってくると、「おいで。」と言って自分の背中に捕まらせる。
泳ぎがとても得意な父は、私という重りが背中に乗っていても、スイスイ泳ぐ。浜辺を背にして、少しづつ少しづつ人がまばらになる方へ向かって泳ぐ。私一人では絶対に行けないところまで連れて行ってくれる。
水が急に冷たくなってきて、足の下には何もなくて少し怖くなる。でもここに捕まっていれば大丈夫、と父の背中はいつでも安心できた。父の肩には小さな茶色い丸いシミが点々とあって、怖くなったらそれを見ることにしていた。
周りが静かになって心細くなり、もうここらへんにしておく、と震えながら私が言うと、「足が着くところまで帰ろうか。」と笑いながら父が言う。今度は浜辺へ向かってぐんぐんと泳いでいく。
だんだんと、また足元の水がぬるくなってくる。まだかな、と恐る恐るつま先を伸ばしてみる。爪の先にサラサラと砂があたる所まで来ると、やっと安心した。父から離れて、また一人で浜に向かう波に乗る。
突然、周りをすべて水が包んで上も下もわからなくなった。パニックになってゴボゴボやっていたら、何かに浮き輪ごと引っ張り上げられた。
やっと息をついて目を開けたら、目の前には父のあんこパンツがあって、もう大丈夫だ、と心から安心した。