素敵なnote探しの旅
noteを読むのが好きだ。普段は知り合えないような、様々な環境で暮らす、様々な立場の人の日常や考えに触れられることが単純に楽しい。
その人が有名だとか人気があるとか、私にとってそういうことはどうでもよい。その方がどのくらいフォロワーがいるかも気にしたことはない。記事についているスキの数もあまり参考にしない。
ただただタイトルにふと惹かれて、その人のnoteを開いてみる。しみじみと沁み渡るような言葉が綴られていたり、思わず笑ってしまうような洒落た一言が書かれていたり、時には心の叫びに出会ったりもする。
個人的には、オリジナリティあふれる作品で、まるで美術品を鑑賞しているかのようなnoteがとくに好きだ。静かな中にもとても雰囲気のあるnote。そういうnoteは読み終わっても長く印象が残っていて、時々ふと好きになった一文を思い出したりする。あのフレーズは良かったなぁ、とか。
一つ記事を読み終わって、つい他の記事も読んでみたりすることもある。いいなぁ、と思ったら躊躇せずにスキをつけたり、時々はコメントもしたりする。コメントは別に返信してくれなくたって構わないと思って書いている。まぁ、感想文みたいなものだ。
たくさん読んでいると、なぜか会ったこともないのに、その方のイメージが浮かんできたりすることがある。これは私が勝手にイメージしているだけで、100人いれば100通りの「その人」像があるだろう。
noteの中の世界だけでも、本当に色々な人が暮らしているのだなぁ、と思う。みなさんそれぞれ個性があって、どの人が素敵でどの人が素敵でないということでは全く無い。
それぞれにそれぞれの人生があって喜びや葛藤がある。いいなぁ、と思う。生きているんだなぁと思う。楽しいことのお裾分けをもらったり、行ったことのない土地を旅をしているような気分にさせてもらったり。辛かったり苦しいのは自分だけじゃないんだなぁ、と少し心が軽くなったりする。
記事から書いた人をイメージすることはあっても、記事がそのままその人の人格だとは思っていない。
文章を書く、読んでもらう、ということは必ずしも書き手と読み手が100パーセント分かり合えることではないからだ。
人は見たいようにしか世界を見ない、とよく聞くけれど、文章だって読みたいようにしか読んでいない。2000字の文章があっても、そのうちのどこを拾うのかは読み手によって違う。その文章をどう受け取るかは書き手側に主導権はない。
それでも書き手としては苦しい時があるのかなぁ、と文章から感じることがある。
人間だから、誰しも「このように見られたい。」という理想はあるんだろうと思う。文章がうまいと褒められたいなぁ、面白いって言われたいなぁ、色んな人と交流したいなぁ、などなど。どんな望みを持ったって、それはその人の自由だ。でも必ずしも思ったように捉えてもらえないことがあるのは、やっぱり読み手は、その人が読みたいようにしか文章を見ないからだろう。
私もきっと、たくさんのnoteを読み歩いても、読みたいようにしか読んでいない。その時の自分の心情にあったもの、琴線に触れるものにどうしても惹かれてしまう。
それでいいんだと思う。文章を読む、というのは結構エネルギーを消耗するので、惹かれるものしか読めない。
縁があって読ませていただくnoteは、まさに全てが個性的でその人にしか書けないnoteだ。内容が明るくても暗くても素敵なものは素敵だし、沢山の人のコメントで賑わっているnoteもあれば、静かな読者を大勢抱える図書館のようなシンとした静謐な空間のnoteもある。そのどちらも、やはり素敵だ。とてもいい文章が載っているのに、まだあまり多くの人に知られていないnoteを見かけると、早く誰かが見つけないかなぁ、と思ってしまう。
そうやって私の素敵なnote探しの旅は続く。