「歩きスマホ」で世界を遮断する人々。
とある日。
某ターミナル駅のホームで電車を降り、階段を降りている最中に視界に見馴れぬ光景が入ってきた。
斜め前を歩く、アニメから出てきたようなロングヘアにフリフリの洋服を着た女性が、手に持ったスマホに向かって何やらペラペラとお喋りしている。
こんなスタンドを持ち、上のスマホ画面には自分の顔。
下のスマホはコメント欄の様で、次々とコメントが書き込まれている。
階段を降りる最中も一切停めることなく配信を続け、改札階に着いてからはカメラの向きを外カメラへ変えて駅の様子を撮影していた。
勿論、その「駅の様子」の中には前を歩く他人の姿がバッチリ映り込んでいた。
これ以上見ていると、何だかモヤモヤした気持ちになりそう。
彼女のカメラに映らないように、距離を取って私は進んでいった。
「歩きスマホは危険!!」等と書かれたポスターがあちこちに貼られている。
でも、実際に「歩きスマホ」をしている人は視界にポスターが入らない。
スマホの先に向けて
本当に凄い世の中になったものだ。
災害が起きると、「視聴者提供」と書かれたスマホで撮影した動画がTVのニュース番組で放映されるようになった。
その元の動画の多くは、Xなどで投稿されて「発見」されたモノだったりする。
そのせいなのか、電車が止まるなどの事象が起きた時もやたらと駅構内を撮影する人が増えた様に思える。
みんな「スマホ越し」の誰かに向けて撮影をしているのだ。
「スマホ越し」の人からの感謝、称賛を求めている。
子供には見せづらいシーンが多い
子供と一緒に歩いていると、「子供には見せたくない」と思うシーンに頻繁に遭遇する。
横断歩道ではない場所で、道路を渡る。
信号が点滅どころか赤なのに無理矢理渡る。
歩き煙草をして、煙草のゴミを道へポイ捨てする。
自転車の荷台に子供を乗せる。
電車やバスの中で、携帯で通話を始める。
動画を見ながら駅のホームを歩く。
イヤホンから大音量が漏れてくる。
車で走っていても、道路中に響くような大音量で音楽をかけた車が走っている。
世界が広くなれば、広くなるほど。
「見せたくない」と思うシーンに遭遇する事は増えていく。
そういう私も、子供がいない時は片耳にイヤホンを付けて「何か」を聴きながら歩いている。
それは「世界を遮断」しているのかもしれない。
目の前にいる人と共有できなくなった
自分が子供だった頃、知らない人に話しかけられるシーンはよくあった。
買い物に行けば、お店の人に話かけられる。
電車に乗れば、知らないオバちゃんから飴をもらう(笑)
でも、大人になるにつれて「他人との距離」は開いていく。
同じ電車に乗っていても、電車が急停車しても。
「びっくりしましたね」「揺れましたね!」等と知らない人と声を掛け合う事は殆どない。
みんな「何か」が起きれば、すぐに視線がスマホへ向かう。
「遅延情報」を調べたり、誰かに連絡をしたり。
そんな「他人とは話さない」がすっかり染み付いていた頃。
3.11の大揺れが起きた時、私は久しぶりに「他人」と時を共有した。
大きく揺れた瞬間、私は五反田の催事場で「知り合いが1人もいない」状況にいた。
非常口の看板を釣る紐が取れて、落下してきそうになった時に思わず「その場にいた知らない人」と手を取り合って身を隠した。
その後、バスに乗った時もあまりにも渋滞をしていて中々進まなかった。
いつしか乗客同士で「全然進まないね」「歩いた方が早くない?」等と会話が始まった。
何故、そんな会話が発生したかと言えば。
そう、電波が入らずスマホが繋がらなかったのだ。
「スマホ越し」に繋がれなくなると、近くにいる人と繋がり始める。
そんな気がする。
母になり、再び「他人」と話す機会が増えた。
最近は減ってきたけど、「赤ちゃん連れ」だった時は知らない人から「可愛いね」「何か月?」等と話かけられる事が多かった。
それは「赤ちゃん連れ」である事は勿論だけど、私がスマホの世界にいなかったのだ。
周りの様子を見ていたり、子供を見ていたのだ。
勿論、不必要に知らない人と喋る必要はない。
移動中という僅かでも貴重な時間を「自分のやりたい事」に使いたい。
でも、いつしか皆が「自分の世界」に入りすぎて、周りが目に入らなくなっているのかもしれない。
知らない間に配信カメラに写り込んだ「通行人と言う名の他人」の中には、その場所にいる事を知られたくない人もいるかもしれない。
眉をひそめて見ている人がいるかもしれない。
小さな子供が近くを歩いているかもしれない。
世界が広がっている様で、目の前の人に気付かない。
そうならないように、時にはスマホも本も持たずに「空間」を味わってみようかと思う。
今日も有難うございました。