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「けがの数だけ、小さくなって」、俺は弱者のふりを続けるのか?

いつも聞いている奇々怪々というラジオで、「弱者のふりした強者」について話していた。どういうことかイマイチ、ピンとこなかったが、なんだか気になるモヤモヤを抱えながら眠りにつき、目が覚めて少し頭が整理されてから、もう一度聞いたら、言わんとしていることが理解できた気がする。

ラジオの中で話題に上がる『サンクチュアリ』という相撲のドラマは俺も見た。正確に言えば、まだ途中だが、話の大枠が見えてくる程度までは進んだ。

このドラマでは、地元では圧倒的に腕力の強い不良少年が、力自慢が集まる角界に入って、見たこともないくらいの大きな壁にぶち当たり、それをどうにか超えていく話だ。その力士を追う高飛車な帰国子女の記者も、同じように成長していく。

ラジオでは、「それなりでもやっていける人たちが、本当に大事なことに、とうとう直面する瞬間だけが美しい」と言っていた。

まさに、いまの俺に響く。最近は仕事にも慣れ、もっと若いころのような貪欲さも薄れてしまった。もっと稼ぎたいとか、もっと面白いことをしたいみたいな気持ちも少しずつ小さくなり、ある程度のお金がもらえて、ある程度うまいもんが食えればいいかなぁ。くらいのモチベーションになってしまった。

ただ一方で、「このままでいいのか?」と心底では思っている。本当は自分のやりたいことに真剣に、誠実に向き合いたい。でも、挑戦することが怖くなっている。同世代に比べてスキルがないことが露呈するのが嫌で、今の環境でひっそりと暮らそうとしている。俺は、そんなありふれたストーリーを抱える中間層の人間な訳だが、このラジオを聞いて、考えて、少しはっとさせられた。

子供の頃に聞いた、ウルフルズの『暴れだす』という曲に、「何も知らないままに、大人になって、やることやって、けがの数だけ小さくなって」という歌詞が出てくる。

子供だった俺は、そこは「大きくなって」じゃないのか?と、真意がまるで分かっていなかったが、いまなら分かる気がする。

俺はこのままだと、ルサンチマン的な思考に陥ってしまい、頑張っている奴らを「頑張れる奴ら」と呼んで自分とは隔絶し、彼らの前向きな姿勢を遠くで見ながら悲観的な皮肉をつぶやくような鼻持ちならない人間になってしまいそうだ。

このラジオを聞いたことで、自分の中のモヤモヤを言語化することができ、客観的に見ることができた。

「嫌ならやめればいいじゃん。頑張っても無駄だし、人間最後は死ぬだけだし」的な、ニヒリスティックな思想が、日本の若者に少しずつ拡大しているように感じられる。もしかしたら、俺もそれに飲まれそうになっていたのかもしれない。

『アンカットダイヤモンド』や『スーパーパンプト』のように、クレイジーな主人公が破滅していく姿に憧れながら、「何かに挑戦すると不幸になる」という解釈で真意を汲み取ることを避けて、小さな挑戦もせずに、いまの生活に無理やり満足していた。

サッカーをやっているときだって、「ただネットに球を入れることで、どうしてこんなに喜ばなきゃいけないのだ?」というニヒリズムに陥っていたこともあった。

挑戦して、たくさんけがをした方が人生は楽しいのだ。エージェント・スミスに「なぜ戦い続けるのだ?」と問われたネオは「Because I choose to(それを選んだからだ)」と答えた。そういうことなのだろう。

と、仕事をサボってこれを書いている俺には、まだルサンチマン側に回る可能性が十分にある。

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