ひとりディストピア feat. 『1984』
お読みいただきありがとうございます。
こうです。
スキがほしい!よろしくお願いします!
お店に出掛けると、ハロウィンの飾り付けが始まっていますね。
オバケキャラが好きなので、ちょっと嬉しい。
(ポケモンのシャンデラとか、ウルトラマンのシーボーズとか・・・)
さてそんな最近ですが、読み終えた本があるのでご紹介します。
それは、『1984』。
ジョージ・オーウェル著。
1949年に刊行された、ディストピアSF小説。
作中世界において、人々はあらゆる思想や言動の自由を失い、巨大な組織に生活のすべてが監視される。
また、事実や歴史はたえず改ざんされ、世界の実態にアクセスすることは厳しく制限されている。
このような人間の尊厳を踏みにじる世界に反抗する主人公、ウィンストン・スミスに待ち受ける宿命とその結末が、この小説では描かれる。
世界観については、現代のアニメなり小説なりに親しんでいる方なら容易に想像できることでしょう。
不味い食事とか、変な匂いのする酒とか、思想犯の連れて行かれる拷問部屋とか、ある意味お馴染みのあれやこれやが目白押し。
元ネタの聖地巡礼をするのが好きな方、ぜひ読んでみてください。
(ちなみに、すでに著作権の失効した作品であるため、無料で読むこともできます。)
さて、僕がこの小説で一番怖いなと思ったポイントは、人々を支配する組織(以下、党とします)の目指すところが、「すべての人間の認知の統一」であるというところです。
党によれば、現実とは客観的なものではなく、己の頭の中にしか存在しない主観的なものだといいます。
その主観とは党の正しいとするものの見方であり、それ以外に真実は存在せず、また個人の中にさえ存在を許さないのです。
そして党は、人々の思想や言動を統制することにより、党の"思い描く"現実を作り上げていくのです。
この党の方針や計画を読んで僕が思い出すのは、『シン・エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウが発動した人類補完計画です。
簡単に説明すると、愛する妻を失った碇ゲンドウはその現実を受け入れられず、世界の認知を書き換えることで妻が死んだ現実を否定し、彼女が生きていることにしようっていうプロジェクトです。
このプロジェクト実行のために、主人公および主要人物、また世界の多くが辛い目にあったり、犠牲となりました。
さて、『1984』にしても『シン・エヴァ』にしても、僕が思うのは、そんなもん一人でやってろってことです。
自分のエゴに人を付き合わせてんじゃねーぞ。と。
ただ一人になるのが怖いだけじゃねーか、と。
そう思うわけです。
僕は自分の性格からして、人とあんまり馴染むことはできないし、他人と感覚を共有することも期待していません。
そんな僕みたいな人間にとって、他人のエゴに付き合わされるのは、本当に耐え難い、人間性の冒涜を感じるのです。
僕は一人で本を読んでいたいし、一人でストリップも見に行きたい。
バイクもマスツーリングとか考えられないし、ご飯も一人で食べたい。
僕はこんなふうに人付き合いを拒否して生きてます。
しかしそうはいっても、自分のことをあまりに理解されていないと感じれば腹も立ちます。
(相手が自然に変わることを期待して、自分がギリギリまで我慢するタイプだっていうのがよくないんだけど・・・)
そこで超然とした態度が貫けるような人って素敵です。ぜひそうなりたい。
「孤独であり自由なものは、必ず敗北する。」
これはまた『1984』の党の主張であり、僕の同意する部分です。
それでも、なんだか僕は自分が長生きするんじゃないかと思っています。
集団で上手くやれなくて逆らって足掻いてる間は、自分の生を実感できてるというか。
結果として大きな集団に敗北はしてるんですけど、死んでるわけじゃないというか。
結局、僕みたいな人間にとっての本当の死は、集団に完全に同化してしまうことだと思うのです。
集団に同化する安らぎを無視してでも、僕はやっぱり一人でいたい。
そして同じような考えを持つ人同士でさえ、くっつくことはできないのだから、その正しさは自分の中に持ち続けるしかないのです。
「一緒にはいられないけど、みんなのことは愛してる。」
そんな人になれたらいいなと思います。
ありがとうございました。