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『ぼっち・ざ・ろっく!』細かすぎる全話演出解説を通して学ぶアニメ演出②

2022年10月から放送が始まった『ぼっち・ざ・ろっく!』。
今更『けいおん!』の二番煎じ?と思ったが、見始めてみると、意外にも、これが驚くほど作り込まれた尖った演出の数々で、黙ってはいられなかった。

2022年12月28日より、DVD&ブルーレイが発売開始されるので、twitterでの私のツイートの解説と、新たに解説を書き起こし、第1話から『ぼっち・ざ・ろっく!』の各カットを細かく解説しながら、アニメの演出について解説していく。といっても、放っておくと、いつものように全カットの解説(1話300cut程度)になってしまうので、重要な箇所だけね・・・ということで始めたのだが、果たして結果は?!

なお、第1話と最新話(見逃し配信)は、abema.tvで無料視聴可能です。

第1話、第2話の解説はこちら。

第3話「馳せサンズ」

音響表現の可能性

ダイジェスティック・サウンド(DS)」は、その場面内で物理的に実際に聞こえている音、「ノン・ダイジェスティック・サウンド(NDS)」は、その逆。また、特にキャラクターの内的心情や幻想・幻覚・夢を表した「音響」(少年時代、父親からDVを受けていた男が、昔の自分の写真を見て父親に罵られたり殴られて悲鳴を上げている自分の声が聞こえるなど)を、「メタ・ダイジェスティック・サウンド(超現実的音響)」と呼ぶこともある。

用語は知らなくても、ドラマや映画の視聴者・観客は、無意識にそれを区別して見ている。台詞ならDS、ナレーションやBGMならNDSというように。

しかし、それらはリアルタイム視聴時には確実に判断できるものではなく、様々な応用が演出によって可能となる。

特に本シーンのように、NDSと思っていた音響が、実はDSだったという場合、シーンの連続性や一貫性が担保され、物語を重層的に描き出すことができる。

背景動画

「背動」は「背景動画」。通常、アニメーションの背景は一枚絵の書き割りで、キャラクターが移動した際にいっしょに動く背景は、その動きに合わせて一枚絵を徐々に動かして行く。
しかし、「背動」では、「動画」として一枚一枚描き起こされる。
その有機的な効果はよくわからないが、敢えてチープな表現(制作は大変ですよ)をすることで「アニメーション感」が増すことは確か。

「動画工房」は、『ゆるゆり』『恋愛ラボ』『未確認で進行形』『月刊少女野崎くん』など、4コマ系・日常系アニメ作品で秀逸な作品を制作しているアニメ・スタジオ。4コマ原作で髪の毛のエッジ処理が『未確認で進行形』と同じなので動画工房と思ったのだが、CloverWorksというアニメ・スタジオでびっくり。
上記ツイートの通り、CloverWorks制作の4コマ原作アニメは、スタジオ設立第1号アニメの『スロウ・スタート』(2018年)以来、本作で2本目。『ダーリン・イン・ザ・フランキス』『東京24区』など、『スロウ・スタート』以降本格ストーリーものを中心に制作していたので、4年ぶりの4コマ原作のアニメ化で驚いた、という話。

CloverWorksは、現在、『ぼっち』と並行して『SPY×FAMILY』(共同制作)を鋭意制作中。『SPY×FAMILY』も、楽しくて面白いよね。

カメラ・ポジションとカメラ・アングル

教室で、音楽の話をしているクラスメイトの会話に反応し、思わず立ち上がってしまったひとり。

ここでカメラ・ポジションカメラ・アングルにつて。

被写体に対するカメラの高さは「カメラ・ポジション」。
上の図はちょっとズレているが、大体首や胸骨より下辺りをローポジション(ローポジ)、目の高さ辺りをアイレベル、それより上をハイポジション(ハイポジ)と分けている。
たまに、カメラの高さ自体をアイレベルと言っている人がいるが、間違い。

そして、カメラの被写体に対する「角度」や、どの方向から撮るかが「カメラ・アングル」で、特にカメラの「縦方向の傾き(ティルト)」を、「ハイアングル(俯瞰)」「ローアングル(煽り)」「水平アングル」(これは通常のアングルなのであまり使わない)と呼んでいる。
ハイアングルとハイポジション、ローアングルとローポジションを混同しないようにしよう。

だから、上記のカットは、厳密に言えば「ローアングルからのローアングル」でひとりを捉えたショットだといえるが、通常は「ローアングル」で済ませている。

ローアングルは、カメラが被写体を見上げる格好になるので、被写体は実物以上に誇張されて大きく堂々と写り、支配的な印象を与える。

上記のショットは、ローアングルでひとりを誇張して描き、何か壮大なことを言いそうに思わせておいて、結局何も言えなかったというギャップで、ギャグにスパイスを加えている。

フレーミングと脱フレーミング

お昼休み、お弁当を食べるひとりをクロース・アップでモンタージュ(ここでは、ひとりがおにぎりをお弁当箱から出して食べるまでを動画で直接描かなくても、「お弁当」と「おにぎりを口元に持っていく」ショットを並べるだけで視聴者に伝えている)。

クロース・アップ・ショットは、被写体以外の画面の余白を極力少なくした「タイト・フレーム」の典型的なフレーミングで、被写体のディテールを細かく描写したり、被写体の人物へ視聴者の興味を引き付けたりする際に使用される。

しかし、ここではクロース・アップのそうした効果よりも、「オープン・フレーム」の効果を狙ったカットになっている。

「オープン・フレーム」は、極端な「タイト・フレーム」により、被写体の周囲の状況を意図的に分からなくしたフレーミングで、周囲がどうなっているのか、被写体の人物がどういう状況に置かれているのかなどを、視聴者が様々な想像を巡らすことができる(「オープン」「開かれた」は哲学用語で様々な解釈が可能なこと)。

そうした上で、

カメラは一気に後退して「クローズド・フレーム」になり、ひとりの周囲の状況が開示される。
このようなシーンの場合、「ひとりがお弁当を食べている」ということを描写するだけなら、このカット(ショット)から始めるのが普通だ。しかし、ひとりが「こんなところでお弁当を食べている」という可笑しさ・悲哀さを伝えるため、オープン・フレーム→クローズド・フレームへと繋げている。いわば、「映像の倒置法」だ。

このように、映像の倒置法を行うことで、ミステリー(謎解き)要素が加わり、映像の流れに厚みが出てくる(このことについてはいつかじっくり考察したい)。

そして、ひとりの妄想タイムになると、いきなりの劇メーション
「劇メーション」は、庵野秀明監督が『エヴァンゲリオン』の次のテレビシリーズ『彼氏彼女の事情』で用いたことでも話題とセル・アニメ以外のアニメーション手法。
セル・アニメ(広義の、ですよ)で劇メーションを使うのは「手抜き」と揶揄されることをある程度覚悟して行う必要があって、表現としては諸刃の剣だが(手を抜くのなら、これよりもっと簡単なセル・アニメ表現は私ですら何パターンか思いつく)、要は作品のカラーや雰囲気に合っているかどうかが重要であって、後藤ひとりの妄想シーンを通常のセル・アニメ以外の手法で描くというコンセプト(方向性)は、第3話のこの劇メーションで確立されたといって過言ではないと思う。

OP開け、Aパートはいきなり何か困った表情の喜多のビッグ・クロース・アップで始まる。
こういう力のある構図は、ある程度の準備段階を経て提示するのが効率的であるし、視聴者にとってもストレスとなるので本来は好ましくないのだけれど、ヒッチコックの「オブジェクト(被写体)の大きさはその重要度に比例する」法則に準拠するなら、「今回の主人公は喜多郁代ですよ」という宣言であると見ていいだろう。

そしてこのショットの構図的意図は、次の3つが考えられる。
①オープン・フレームで周囲の状況を視聴者に想像させる
②ビッグ・クロース・アップにより喜多の頭部と口元をクロップ(切り取り)する「デカドラージュ(脱フレーミング)」により、喜多の緊張感や不安を描写する
③中心軸をズラしたキャラクター配置により、画面左側(下手)に空間を開け(ルーズにし)てルッキング・ルーム(人物が見ている方向を空間で表現)を作り、喜多の視線と意識の方向性(アクション・ライン)を誘導

あと、美少女の困った顔って良いよねっていう・・・

つまり、「オープン・フレームで周囲がどういう状況になっていて、喜多が何に困っているのかは分からないが、画面左側の先に何かがあるのだろう」と、視聴者にカメラで切り取られたフレームの外を意識させるという、「求心的なフレーミング」と「断片的なフレーミング(演出効果をねらった見切れのこと)」を明瞭に区別した、かなりクリティカルなカットなのである。

次に、クローズド・フレームで喜多がひとりに見られていると判明した後、画面の左右をいっぱいに使ってひとりと喜多との距離感を示し、二人の心理的な距離感を暗示する。

「覗き見る」ことと垣間見、あるいは「見ることの顕在化」

『ぼっち・ざ・ろっく!』で多い表現が、「覗き見る」ことだ。

第1話
第1話
第2話
第3話
第3話

このように、キャラクター自身が実際に何かを覗き見る場合も多いのだが、それと並行して「視聴者の覗き見る感覚」を誘発する構図が多いのも特徴だ。

第1話
第1話
第2話
第3話
第3話

「視聴者が覗き見る感覚」は、「デプス・ステージング」、いわゆる「縦の構図」によって誘発されてくる。

縦の構図」とは、上記のように、その画面の中で主体となる被写体を奥側(遠景)にお置き、その前に(前景・中景)それとは関係のない物質(遮蔽物)を置き、その遮蔽物越しに被写体を垣間見させる構図のことだ。

この問題を突き詰めると、学術論文が何本あっても論じ足りないくらい奥深い課題なので、今は「そういうことがあるんだよ」程度に捉えておいていただきたいのです(今、私が映像研究をしろ、といわれたら、間違いなく「縦の構図」の研究に一生を捧げますね)。

しかし、よくよく考えてみると、写真や絵画といった画像にしても、ドラマや映画といった映像にしても、あらゆる視覚メディアは、カメラという装置を通してその世界を「覗き見」するものだ。

その「覗き見」を担保するものは、本来、カメラで切り取られ、映画のスクリーンやテレビやモニターの画面に還元された「フレーム」であるが、私たちは、そういった「フレーム」は自明的で所与のものとして、通常、意識することはない。

それが、縦の構図になって被写体を垣間見ると、見る者は途端に「覗き見」している感覚に襲われる。

簡単に言えば、この感覚は、遮蔽物によって見るべき・見せられるべき対象物が見難くなることで、「見たい」という欲望が喚起され、視聴者がその欲望に意識的になることで誘発されるものと考えられる。

フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは、「一方的に見る(覗き見る)ことは、しばしば見られる対象の価値を高め、そこに真実があるという幻想を抱かせる」と言っています。

つまり、映像作品は、ただ一方的に見る(覗き見る)という行為だけではその行為者にその自覚は最早なくなっているので(だからフーコーは幻想だと言った)、「縦の構図」によって対象物を「見たい」という欲望を換気し、見られる対象の価値を高めているということです。

アニメと形骸化された肩越しショット?の切り返し

『ぼっち・ざ・ろっく!』第3話では、

後藤ひとりと喜多郁代の頭越しショットを切り返しつつ、

ときおりカメラがぐっと引いたワイド・ショットになり、縦の構図を挟んでいく。

「頭越しショット」は、通常の演出用語にはない。
通常は、「肩越しショット」「肩なめショット」(OTS[Over the Shoulder Shot])」と呼ばれ、現代のドラマや映画の会話シーンではスタンダードになっているカメラ・ワークだ(だから、「頭越しショット」を略すとすれば、OTHになるだろうか)。

もっとも、この「スタンダード」というのがクセモノで、言い換えれば「凡庸」「陳腐」「退屈」「手抜き」「何のクリエイティビティーもない」となるだろう。

そもそも「演出」とは、画面に写っている場面の単なる説明にとどまらず、ストーリーに潜在する深い本質や深い意味合いを掘り出し、強いインパクト(必ずしも驚きという意味ではない)を与える行為なのだから、演出家たるもの、会話シーンとて、会話の内容に則したカメラ・ワークや演出を施すことを肝に銘じるべきである。

特にアニメーションの場合は、実写と違い、現場に物理的な撮影機材があるわけではないので、撮影場所、時間、ピント、シャッタースピード(動画撮影にも必要です)、露出、照明、色温度etc諸々の技術的制約を考慮する必要は少なく、かなり自由な演出プランを立てることが出来るのだ。

本作のこのシークエンスの場合、OTHと「縦の構図」とのバランスが秀逸だ。

特に、「縦の構図」を、数あるその意味合いの一つである「真実の暴露」に用いているのは見逃せない。

つまり、
①ひとりが、ギターが巧いことを喜多が知る
②ひとりがバンドでギター・ヴォーカルを探していることを喜多に告げる
③今度こそギターを引けるようになってバンドの先輩に誤りたいと告げる
④喜多がひとりにギターを教えてくれと依頼する

ちなみに後のシーンだが、

ここでも、虹夏とリョウに喜多がギターを弾けないことが暴露するシーンで縦の構図が用いられている。

ただし、喜多が「実は、自分はギターを弾けない」という、ある意味このシークエンスで最も重要な「告白」は、縦の構図では語られない。
彼女の告白は、

やや斜め上のハイポジションからの俯瞰で喜多を捉えたアングルの中で語られる。

ハイポジションからのショットは、「神の視点」とも言われ、「縦の構図」同様、被写体をある程度「客観視」したアングルだ。

この第3話は全編通して、状況説明的なショットでなく、明確な意図を持ってキャラクターの会話内容に則したハイポジションからの俯瞰ショットにしているのは、この1カット(喜多の画面比率の大きさも重要)と後半に1カットあるだけで、両方とも、ある意味で特権的に用いられているのが印象的だ(もう1カットについては後述)。

徹底したスクリーン・ダイレクションとパン。フレームを利用した様々な表現の可能性

ひとりのバイト先に喜多が付いて行くシーン。

喜多が下北沢に来たことがあると知り、まだそこの雰囲気に慣れないひとりが、喜多の左側から右側に。

これは「サイド・スイッチ」といって、並んだキャラクター同士の主客の入れ換えを意識的に行う手法。

このカット以降はある時点まで、喜多がひとりの左側、ひとりは喜多の右側のポジションを遵守することになる(リバース・アングルになる場合は除く)。

一般に、スクリーン・ダイレクションとしては、画面右位置が「強」、画面左位置が「弱」だが、その立ち位置にすると、視線は自然に右→左、左→右となる。

ただし、スクリーン・ダイレクションでの視線の方向性は、彼女ら二人が向き合った時には右→左はネガティヴ(不安、敗北)、左→右はポジティヴ(意識の高さ、希望)となり、立ち位置とは逆になるので、そのカットは立ち位置を重要視しているのか、視線の方向性を重要視しているのかで、スクリーン・ダイレクションの意味合いが違ってくる。

そして、喜多が「ライヴハウスには行けない」とひとりに告げるカット。
ひとりはその発言にたじろぐが、喜多の表情は「アウト・オブ・フェイス」でフレーム・アウトしていて、視聴者にも隠される。

視聴者は、キャラクターの表情(中でも目)を見たいと思っているものだ。そのキャラクターが意外な事実を知った瞬間や、そのキャラクターが重要な決断をしたり意外で衝撃的な告白をしたりした場合は、特にそうだ。

しかし、このように「アウト・オブ・フェイス」である意味でのデカドラージュ(脱フレーミング)、ある意味でのオープン・フレームにより、その表情を敢えて隠してミステリー要素を加味して、「理由を隠したい」という意思を映像とマッチングすることで、その告白自体の重みが増す。

特に、上記のようにその他のキャラクターがその告白に対して、発言の意味を考えあぐねている場合は、そのキャラクターと視聴者自身が同一視され(ミラーリング)、その意識が更に増大していく。

「理由は言えないけどライブハウスにはどうしても行けない」と半狂乱になる喜多のカットから、「修正パン」でカメラが左側にパンすると、背後から虹夏がひとりに声を掛けながら近づいて来て、「!」となる喜多。

新たなキャラクターの登場によって次のシーンが始まる中で、2つのシーンを1ショットでスムースに繋げることを「シーン・スワップ(シーンの共有)」という。

複数の小さな会話シーンを、視覚的には1つのカットにまとめることで、そこに流れが生まれる。もし、虹夏の登場シーンを別のカットで描いてしまったら、2つのシーンが不自然にくっつけられたように見えてしまうだろう。

このように、何か新しい要素が画面に加わったり判明したりすることを、映像作品では「リヴィール(Reveal、情報開示、暴露、明らかにする)」という概念でまとめている。

このシーンのようにパンによるリヴィール(リヴィール・パン)は、編集でショットを繋ぐ情報開示とは違い、継続した動きの中でリアルタイムに情報を描ける流動性があって、「フレーム」自体を移動させるパン撮影の可能性として、今後の研究課題となるだろう。

基本的に、「右→左」に読み進めていく漫画と、「左→右」に視線が動くアニメとでは、スクリーン・ダイレクションの論理は異なっている。この例に限らず、漫画原作のアニメで、キャラクターの立ち位置が原作と左右が入れ替わっている場合が少なくない(もちろん、実写の場合は、撮影現場の都合や制約で、カメラを自由な位置に配置できず、必ずしもプラン通りにならないことも多いが)。

ないがしろにされる主人公の孤独と開放

人数の少ないグループであっても、1人だけ会話から取り残されることはよくある。主人公がそのような状態に陥った場面で、画面の脇に押しやるのではなく、むしろ中央に配置して描くと面白いし、クリティカルだ。

こうすることによって、中央にいる人物が当惑したり窮屈に感じたりしている様子が強調される。ひとりが画面に映っていないカットでも、彼女の感じている圧迫感が表現される。それだけに、最後の最後にひとりがピンショットで映された時の開放感は、ひとりにとっても視聴者にとっても、特別なものとなる。

これもシーン・スワッピングで、数あるパン・ショットの可能性の一つだ。リヴィール・パンとは違うが、やはりカット割りをして繋げるよりも、シーンとしての統一性や流れの一貫性が感じられていい。
実写では、この暗さでここまでのパン・フォーカス(手前から奥までピントを合わせること)は無理で、アニメならではの描写といえる。

階段とアイデンティティー、または人生

印象的な階段のシーン。『ロミオとジュリエット』では、バルコニーのシーンで、ロミオとジュリエットの立場の違いが象徴的に描かれるが、『シンデレラ』を思い出すまでもなく、「階段」は、人生を決定するような重要なシーンで舞台となる場合が多い。ちなみに、エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』の階段のシーンは、権威の象徴だ。

上記の図例では、「喜多ちゃんも、結束バンドをいっしょに盛り上げて欲しいな」と、前述した「縦の構図での重要な情報の開示」が行われている場面だが、同時に、喜多が「ここにいてもいいんだ」、ひとりも「私、頑張った」と自己肯定する場面でもある。

また、通常は、高い位置にいる人物の方が、低い位置にいる人物よりも強い立場だという意味合いで表現される。

しかし、このシーンは、標準的なハイ/ロウ・コンビネーションだが、ナーバスになって逃げようとしている喜多を高い位置に、その彼女を説得しようとしているひとりや虹夏を低い位置に配置している。

このように、ハイ/ロウ・コンビネーションの意味合いを逆転させて、強い立場にいる人物を低位置、弱い立場にいる人物を高い位置に配置する「レベル・チェンジ」を用いれば、ショットに緊張感を高める大きな効果を与えることが可能となる。

このような配置では、喜多の視線は自ずと下側に向き、右から左側への視線の意味(意識の高さ、希望)が自然に逆転し、ネガティヴな心情表現として描くことも可能となる。

そして、背景のポスターに書かれている「ギターボーカル募集🎤」と「大歓迎!!」が、喜多のキャラクターの意味合いとイメージ的にマッチングして、状況を雄弁に語っている。

キャラクターの所持品でキャラクター性を描写する可能性

喜多がひとりからギターを教わるシーン。
彼女たちが仲良く二重奏する演奏音を背景に、それぞれの持ち物であるスマホが垂直俯瞰で映される。

彼女たちの二重奏は、ダイジェスティック・サウンドであるが、単なるBGMとしてではなく、喜多が結束バンドのメンバーとなったこと、ひとりのレッスンが巧く行っていること、そして、その変化を触発させたシンボルとしても使われている。シリーズの構成上、この作品の序盤部の頂点にある分岐点を、この音楽で強調しているのだ。

そして、このスマホ。

映画では、小道具によってキャラクターの心の中の世界をドラマティックに表現できることは知られている。小道具は、視覚的な表現に適しているだけでなく、それを意識的に選んで表現に利用すると、キャラクターの心情表現だけでなく、シーンの意味合いに深みを与えることが出来る。

ここでは、スマホ・ケースを付け、画面にガラス・カバーを貼ったホーム・ボタンのない最新機種のスマホと、ホーム・ボタンのあるやや古めの機種をケースも付けずガラス・カバーも貼り付けていないむき出しのスマホとの対比で、ひとりと喜多のスマホへの依存度の使用頻度が仄めかされている。

当然、メールの送受信だけでなく、SNSへの投稿やライフログの記録などを頻繁に行うのなら、消耗を押さえるためにもケースやガラス・カバーの装着は必要だし、「ただ持っているだけ」なら、本体むき出しでも長持ちするだろう。

もちろん、キャラクターの性質を分別するためのツールとしてではなく、アイデアとストーリーの内容次第では、いくらでも効果的な使用法の可能性は広がってくる。

今回は、ここまで。

第4話も書こうと思ったが、すでに9千文字を越えたので(気を抜くとすぐこれだ)、続きは次回!

次回は、第4話から(のみ?)。

あと、ご意見、ご感想の他、「SEって何?」とか、この用語わからねーよ!というどんな細かなご質問も構いませんので、ご気軽にどうぞ。というか、お待ちしています。

『ぼっち・ざ・ろっく!』DVD&ブルーレイ第2巻(第3話、第4話収録)
2023年1月25日発売(ジャケット絵は仮)


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