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実は誤植だらけのショスタコーヴィチ:交響曲第9番~そして初稿版と改訂版

■交響曲9番~改訂版について

程度の差はあるが、一度公表した作品を頻繁に改訂する作曲家として、マーラーやブルックナー、そしてシベリウスが有名だ(ストラヴィンスキーの場合は、彼らとはちょっと事情が違う)。

ショスタコーヴィチの場合、本人によるブルックナーの改訂癖に対する批判めいた文章の存在や、交響曲第13番やオラトリオ《森の歌》において、歌詞は替わっても音楽には一切の変更を施さなかったことなどから――オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》がほぼ唯一の例外として――、改訂を行う作曲家としては、あまり意識されていないのではないだろうか。

確かに、ショスタコーヴィチの作品について「版」の問題が大きく取り上げられたことはない。時折、ヴァイオリン協奏曲第1番の作品番号が77と99の2つあることに疑問が呈されることはあっても、「作曲時期と発表時期の違い」で片付けられてしまう。

しかし以前から、概ねコンドラシンの全集盤以降のソヴィエト国内の録音と、1946年のクーセヴィツキー以降から1990年代初めころまでのソヴィエト国外での録音とに、部分的に楽器編成が異なる演奏の多いことが、コアなショスタコーヴィチ・ファンの間では知られていた。

本稿では、ショスタコーヴィチ作品の「版の問題」を、ショスタコーヴィチのリスナーに少しでも広く喚起すべく、最も分かり易いと思う、交響曲第9番の「版」について解説する。

■存在が隠された交響曲第9番【1961年稿】の謎

現在までに出た交響曲第9番のスコアは、以下のものがある。

・Music Fund of the USSR(collotype印刷)300部のみ/1945年

・Muzgis(2500部)/1946年

*Leeds Music/1946年

*Boosey&Hawkes/1946年

*Breitkopf&Hartel/1947年

*Edwin Kalmus/1947年

・Muzyka『ショスタコーヴィチ作品選集』第5巻/1979年

*Hans Sikorski/1991年

*全音楽譜出版社『Shostakovich Complete Edition』/1991年4月

*Dover(交響曲第10番との合本)/1995年

・DSCH『新ショスタコーヴィチ作品選集』第9巻/2005年

以上、出版社の前に"・"印のあるものはソヴィエト(ロシア)国内でのオリジナル出版、"*"印のものは、そのライセンス出版である。

事の発端は、1979年に出版された『ショスタコーヴィチ作品選集』(本稿では便宜的に1979年版とする)のスコア。この、1979年版の出版により、なぜ、1965年のコンドラシンの録音以降、それ以前の録音と異なる演奏が多くなったのか、正式に判明したのだ。

1979年版の校訂報告によると、交響曲第9番は、1961年に改訂されたという(以下、1961年稿)。

上記の交響曲第9番の出版歴のように、1979年版以前の版(稿)は、Muzgis社の1946年(初稿)版(とそのライセンス出版版)が最後、というかそれだけで、1961年稿自体が出版された形跡はない。したがって、ソヴィエト国外のオーケストラが交響曲第9番のレンタル譜を依頼する際、基本的にはアメリカ圏ならLeeds Music社かKalmus社、英国圏ならBoosey&Hawkes社、東欧圏ならBreitkopf社を通すであろうから、連邦崩壊後、Sikorski社が『ショスタコーヴィチ作品選集』のライセンス出版として、1961年稿を取り扱うまで、ソヴィエト国外では、コンドラシンやスヴェトラーノフ(1978年録音)の録音とは違い、初稿版に基づく演奏が横行していたのは、当然といえる。

ただし、1960年代でも1961年稿による演奏が皆無だった訳ではなく、マタチッチ指揮NHK交響楽団による1967年1月12日のライヴ録音[ALTUS ALT129]が、なぜか1961年稿による演奏だ。1978年のケーゲル指揮ライプツィヒ放送響[WEITBLICK]、バーンスタイン指揮ウィーン・フィル盤[DG](1985年10月)や、ショルティ指揮ウィーン・フィル[DECCA](1990年5月)のライヴ録音、1993年録音のロストロポーヴィチ指揮ワシントン・ナショナル響[TELDEC]がすべて初稿に基づく演奏だから、なかなか稀有なケースとして、交響曲第9番の演奏史の中でも特記すべき事項であろう。

では、なぜ1961年稿は出版されなかったのか?

というより、ショスタコーヴィチはなぜ1961年に交響曲第9番を改訂したのか?

生憎、筆者はその明確な答えを持ち合わせていないが、想像はできる。

ショスタコーヴィチは交響曲第12番と第13番を書いた前後の61~63年頃は、共産党に入党させられたり、レニングラード音楽院での教職に復職するなど、公的な仕事が増えたため、作曲家としての仕事はムソルグスキーの《死の歌と踊り》や、自作のオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》の編曲(《カテリーナ・イズマイロヴァ》)くらいしか目立ったものはなかったし、50年代後半の雪解け以降、海外で自作が演奏されることも多くなったため、過去の主要作品の見直しを集中的に行なったのではないだろうか。

実際、61年に英国では盛大にショスタコーヴィチ・フェスティバルが行なわれ、ショスタコーヴィチも訪英したし、60~63年にかけて、新版が出てから時間が経った第1番~第10番までの交響曲のうち、主要な作品の新校訂版スコアが立て続けに出ている。交響曲第9番の改訂は、その先駆けとして行なわれたものであろうことは想像に難くない。

しかし、それが出版社からの要請だったのか、自主的に行なわれたものだったかは、分からない。また、出版を視野に入れて自主的に校訂・改訂をしたものの、出版社に出版を拒否されたのかもしれない。

いずれにしても、1961年稿は出版はされなかったものの、ソヴィエト国内の(少なくとも主要な)オーケストラには行き渡り、1960年代中頃から1961年稿を用いて演奏が行われるようになった。そのため、ソヴィエト国内とソヴィエト国外とで、異なる演奏が何十年も併存することになっていったのである。

■初稿と1961年稿の違い

演奏上、大きな違いがあるのは以下。

まずは、以下の動画を参照されたい。

上記動画の通り、フィナーレ・第五楽章【練習番号95(1979年版、全音版、DSCH)/[K](Breitkopf)、以下同】以降からの第1ヴァイオリンが、初稿(映像では初版)では第2ヴァイオリン以下の弦楽器等と同じピツィカートによるリズム打ちだが、1961年稿(映像では改訂版)では、木管楽器と同じ旋律を奏でる。

この違いは、録音や実演を聴くだけですぐに分かる。

■終わらない、誤植との戦い

しかしこの部分、初稿版からの大きな誤植が一度も正しく印刷されたことがなく、最新版であるDSCH社の『新ショスタコーヴィチ作品選集』でも、1979年版の誤植がそのままになっている。

それは、この箇所前後のタンブリンとスネアで、Breitkopf版では、[94/I]からタンブリンが演奏し、[95/K]でスネアに代わるわるのだが、1979年版以降では[94/I]からずっとタンブリンのままできて、ページを捲ると100ページ目(DSCH)/112ページ目(全音)、つまり[96/L]4小節前でいきなりスネアになる。

これは、タンブリン(T-no)とスネア(T-ro)の略名がごっちゃになった結果で、稚拙すぎるミスだ。

Breitkopf版は、練習番号[K]前後で、スネア(Tb-ro)とタンブリン(Tb-rino)は途中から「段」で別れているので、途中でタンブリンからスネアに代わるのは疑いようがない。

ところが、1979年版の[94/I]以降の打楽器のパート譜は、一貫してスネアで書かれているという。

1979年版はこの辺り、T-roとT-noで段が別れていないため、Breitkopf版同様、[95/I]以降タンブリンからスネアに変更になるのか、パート譜どうり[94/I]から[97/M]に入るまでずっとスネアで良いのか、難しい問題だ。この件について、DSCH版の校訂報告では、何も触れられていない。

[96/L]4小節前で、ページを捲るとタンブリンがいきなりスネアになるのは問題外としても、ショスタコーヴィチが改訂の際、「[94/I]以降はずっとスネアにしよう」と考えなかったとは、言い切れないのだ。

個人的には、Breitkopf版どうり、[94/I]からタンブリンが演奏し、[95/K]でスネアに代わるのが妥当のようにも思うが(つまり、1979年版はスコアもパート譜も間違えている)、確証はない。

実は、Breitkopf版も誤植がないわけではない。

[95/K]以降のスネアのリズム打ちは、[97/M]で音楽が一度切れて、テンポアップする4小節前まであるのだが、Breitkopf版は、1979年版とは逆に、71ページから72ページにページを捲ると、最後の2小節だけいきなりTb-rinoになっているのだ。

普通に考えれば、「誤植だろう」ということになり、確かに殆どの演奏では最後の2小節だけタンブリンにするなどということはないのだが、古い録音ではクルツ指揮ニューヨーク・フィル盤[SONY、1947年録音]や、新しいところでもスチュワート・ロバートソン指揮ウクライナ国立フィル盤[VEDI RECORDS、1993年録音]のように、楽譜通り演奏してしまっている録音もある。

このように、「これは明らかに誤植だ」と分かるであろうと思われるような場合でも、間違ったまま演奏してしまうパターンは、今後も出てくるだろう。

1945年版や1946年版も誤植は少なくないし、1961年版も、間違いはいくつか発見されている。例えば、第1楽章150小節目(バスドラムの強烈な一撃の直後)の、トランペットとホルンの最後の3つの四分音符にスラーがないことは、1979年版校訂の際、ワインベルクが発見した誤植だという。コンドラシンやスヴェトラーノフはちゃんと訂正して演奏しているが、オイストラフの1969年盤[RUSSIAN DISC]は楽譜のまま演奏している。

誤植は、出版事業にはつきものだが、楽譜の場合は、それ自体で完結しているわけではなく、「演奏」という活動に直接影響する。書籍とはまた違った問題を引き起こすから、質が悪い。

後は、演奏者の方で防衛するしかないのだが、演奏の参考に録音を聴く場合、上記のようなことに留意してみては如何だろうか。

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