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連載:私を「クラシック沼」に落した穴(傑)作~その3

好きな音楽との出会いは生涯の友、なのか?
さて、前回までは、人の趣味趣向がどのような脳内メカニズムで形成されるのか? と、私が中学二年生の夏までにハマった音楽についてお話してきた。
その頃は、正に「カンブリア爆発」のように、FMラジオの音楽番組を聴き漁り、様々な形態の音楽に触れていった。クラシック音楽や吹奏楽だけでなく、ジャズやフュージョンなどのニュー・ミュージック(死語やなあ)、ペレス・プラードなどのマンボ系、映画のサントラも含め、本当に様々のジャンルの音楽を聴いた。特撮系劇伴にハマったのも、1984年の、いわゆる「復活ゴジラ」の劇伴を特集したラジオ番組を聴いたのが切っ掛けだった(ああ、これも中二の時か・・・)。

当時聴いていた音楽を総括するなら、吹奏楽部でトランペットを吹いていたこともあり、歌のある音楽よりも、インスト曲がほぼ100%だった。というか、むしろ、「歌」のある音楽は、意識的に避けていたように思う。私は、日記は付けていないので記憶に頼るしかないのだが、当時の自分を振り返ると、「歌」のある音楽は、何故か意識的に嫌悪していたように思う。FMでジャズのライヴをエアー・チェックしていた際も、ヴォーカルが付いた曲が出てくると、録音を止めてしまったくらいだ。

いや、別に、音楽の授業で、クラス全員の前で無理やり歌わされて嫌な経験をした、というようなことはない。だから、当時の自分が、「歌」をなぜそこまで嫌悪していたのか、その理由は今でも分からない。
無理やり分析すれば、「『歌』のある音楽を聴くのは、所詮はその歌手の歌が聴きたいだけであって、『音楽』自体を聴いてるわけじゃねーだろ」という思い込みがあったのかもしれない。少なくとも当時は、「それは音楽との本当の接し方じゃないじゃないか」という意識があったのだと思う。

それはともかく、様々な音楽を聴いていく中で、(自分の趣向に)「刺さる音楽」と「刺さらない音楽」というのは、歴然として存在する。
それが何故なのかは、脳科学や認知心理学でもまだ明快な答えは出ていないようだから、ひたすら具体的な事例を観察していくしかないだろう。
もちろん、私と同じ様な聴き方をして行っても、私と同じ音楽に傾倒するようになるとも限らない。

前回までに、「ホルモン分泌のバランスが変わる十代で出会ったインパクトのある出来事がその後の一生の趣味趣向を支配する」というような事を書いてきたが、「音楽なしの人生は考えられない」という境地に陥るのも、「音楽なんて、趣味の一つじゃん」と割り切るようになるのも、その人にとって「インパクトのある音楽」に出会えるかどうかが、その分水嶺になるのだと思う。

前置きが長くなったが、それでは、本編スタート。

セレンディピティー(偶然の出会い)を必然に
十年くらい前だろうか、スピリチュアル系や自己啓発系の分野で、「セレンディピティー」という言葉が言い出されるようになったことがある。
「セレンディピティー」とは、一言で言えば「素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること」、「ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ること」(Wikipedia)であるらしい。
近年では、それよりも「引き寄せの法則」といって、自分にとって幸せな未来を願い続けることの方が重視されているように見受けられるが、音楽に於いても、「セレンディピティー」は重要な要素になるものだと思う。

中学を卒業し、高校に進んだ私は、またもや吹奏楽部に入学した。
特に入学したい高校はなかったので、それならいっそ、吹奏楽部が充実している学校に行こうと思った。
私が選んだその高校は、いわゆる吹奏楽コンクールの強豪校で、30年以上(当時)、県大会に連続出場という、県下で唯一の記録を誇る学校だった。偏差値も中程度で、十分に合格圏内だったこともあり、即決したのだ。

調べれば分かってしまうかもしれないが、高校一年のコンクールの自由曲は、オネゲルの交響的運動《パシフィック2.3.1》だった。

上級役員の自由曲会議が終わり、選ばれた作品のデモテープを聴いて、私は心底驚いた。
この連載第2回をお読みいただければ分かるように、私が中学二年の時に聴いて好きになったものの、曲名だけはかろうじて覚えていたが、作曲者名がわからず、もう一度聴きたいのに聴けなかった曲がある。
そう、《バスティーユ広場への行進》だ。

この、オネゲルの《パシフィック2.3.1》を聴いた瞬間、「これって、《バスティーユ広場への行進》じゃん! もしかして、この曲の作曲者って、オネゲルなんじゃ・・・」と突然繋がった。
実は、当時の私は、オネゲルを知らなかった。まあ、高校一年でオネゲルを知っている方が怖いのだけど。
私がオネゲルにハマった切っ掛けは、1989年3月にFMで放送された、小澤征爾指揮ウィーン・フィルによる、1988年のザルツブルク音楽祭での《火刑台上のジャンヌ・ダルク》のライヴ録音だった(エアー・チェック・テープに明記)。

後にドイツ・グラモフォンからCDで発売される録音はフランス国立管との録音で、個人的には、VPOとの演奏の方が好きだが、刷り込みか。

ともあれ、当時は、今のようにニコ動やYou Tube、アマプラ(これはちょっと違うか)などで、コストを掛けず自由に音楽を聴ける時代ではなかったし、ネットもなく、物を調べるには本しかなかった時代なので、取り敢えず学校の図書館に走ってオネゲルの作品一覧を調べたが、残念ながら記載されていなかった。
割りと大きな音楽辞典だったと思うが、全ての作品が掲載されていた訳でなく、主要作品+αくらいしか記述されていなかったので、このことだけで「バスティーユ」がオネゲルの作品でない証拠にはならない。

明確な答えは得られなかったが、取り敢えず「バスティーユはオネゲル作曲らしい」と目星が付いただけでも進展ありで、社会人になって数年後、1992年くらいに、営業先である芸術音大の図書館で、オネゲルの研究書を当たって、ようやくこの問題については決着をみたのである。

もちろん、オネゲルのオーケストラ作品を吹奏楽用に編曲して演奏する吹奏楽団、それも高校の吹奏楽部にあっては、他に数例あるだけで、極めて珍しい。にもかかわらず、入部して間もなく(自由曲が発表されたのは5月の連休前)、「重大なヒント」を与えられる偶然。
それがなくても、いずれは判明しただろうが、この偶然の出会いは、今考えても恐ろしい。

初めてのヘヴィーローテション曲との出会い
私が高校に入学した年の1986年は、日本のクラシック音楽界にとって、大きな出来事があった。
同年10月、東京の赤坂に、東京初のクラシック音楽専門(専用設計)コンサート・ホールが完成したのだ。そう、サントリー・ホールである。

サントリー・ホールの設計には、ヘルベルト・フォン・カラヤンが助言をしたということもあってか、オープニング・コンサートは、カラヤン指揮ベルリン・フィルが大きな目玉として行われる予定だった。
しかし、カラヤンは体調不良を理由にキャンセル。小澤征爾が代役を務めた。
プログラムはシューベルトの《未完成》交響曲とR・シュトラウスの交響詩《英雄の生涯》。オープニング・コンサートで《未完成》ってどうなのよ? と思っていたら、R・シュトラウスの《メタモルフォーゼン》から曲目変更されたそうである。


当時のチラシ

当時のベルリン・フィルは、日本人がコンサート・マスターに就任したという話題とともに、日本の音楽ジャーナリズムは話題沸騰だった(その少し前には「ザビーネ・マイヤー事件」がある)。
かくして、この公演はNHK-FMで同時生中継、後にライヴ映像(上部リンク)がNHKでTV放送された。

もちろん、ラジオの前で全裸待機である。
演奏は、さすがと言うべきか、《英雄の生涯》をカラヤンといっしょに何度も演奏してきたベルリン・フィルだけあって、指揮者が急遽変更(本国でのリハーサルはカラヤンが指揮をしたといわれる)されてもなお、水準以上のクオリティーを保っていた。
いや、そればかりでなく、この後、《英雄の生涯》のディスクは出来る限り手元においてきたが、結局、この演奏のクオリティーと同質な演奏は、片手に収まるほどしかない。
例えば、このクリストフ・フォン・フォホナーニ指揮クリーヴランド管盤と、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮サンフランシスコ響盤だ(どっちもDECCA・・・)。

当時の私は、R・シュトラウスといえば、《ツァラトゥストラはかく語りき》だとか、《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》といった、キャッチーな音楽ばかり書いている作曲者といった程度の印象しかなく、「歌」は好きではなかったので、もちろん彼がオペラ(楽劇)や歌曲を書いているなんてことは、知る由もなかった。

しかし、《英雄の生涯》を聴き、クラシック音楽の懐の深さというか、音楽という現象、そのものに対する捉え方や認識の広さ(楽譜は同じなのに演奏が大きく変化する)に感心するとともに、この作品の雄大さや音楽の厚さ(まあ、後期ロマン派なので当然ではあるが)に、心底感銘を受けた。

この演奏を録音したエアー・チェックテープは、ブームはちょっと去っていたけれども、毎日通学時にウォークマンで聴いていた。家から学校まで、大体この一曲分の時間だったので、ちょうどよかった。

そうしているうちに、連載第一回でもお話した「単純接触効果」により、ますますこの作品とクラシック音楽という分野に惹き込まれていった。
当時は、まだクラシック音楽以外の分野(といってもインストに限る)の音楽もそれなりに聴いていたが、FMラジオのクラシック音楽番組で、様々な作品を知っていくうちに――ほとんどがライヴの実況録音だったが――次第に
聴く機会は少なくなっていった。

クラシック音楽黄金の時代の恩恵を受けて
当時聴いていたのは、こんな感じ。

少なくとも週に2、3度はエアー・チェックをしていたので、これでもごく一部だが、今見ると物凄いラインナップだ。
これらは、youtubeに音源or動画が上がっていた東京でのコンサートを中心に挙げたが、円高(今よりも安いが、1985年以前は235円台だったのが、プラザ合意によって一気に150円台にまで上がった)を背景によくもまあこれだけのメンツを揃えられたものだ。

これだけのアーティストの、レコードにもなっていないライヴ演奏を数日に一回聴けていたのだから、クラシック音楽ファンにならない方がどうかしてるようにも思えてしまう。
特に、記事の時系列的にはもう少し後になるが、アバド指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン交響曲全曲演奏は、無謀としか思えない。

当時のチラシ

私も、ベートーヴェンの交響曲全曲を、一挙に聴くことが出来るということで、放送を期待を込めて待っていた。今でこそ、ベートーヴェンの交響曲を全曲収めたCDを格安で求めることが出来るが、当時はそんな訳にはいかない。新譜なら、1万数千円はしただろう。

ちなみに、アバドといえば、今ではベルリン・フィルの音楽監督を務めたことでも知られるが、当時はまだカラヤンが存命中だったので(BPOの音楽監督としては瀕死だったが)、そのような未来はこの時点では誰も予測できなかった。この前年には、ウィーン国立歌劇場(ここのオーケストラがウィーン・フィル)の音楽監督に就任したが、その前まで務めていたロンドン響との相性は良かったものの、まだ50代前半。ヨーロッパ一位とも二位とも目される一流オーケストラの指揮者としては、国際的な評価はそれほど高くなかった。1991年には音楽性の齟齬から辞任させられている。

とはいえ、このツィクルス演奏は大成功だった。この演奏の前後に行われていた、アバド初のベートーヴェン交響曲全集録音のプロモーションとしても。

「脳天直撃」のインパクト
そんなこんなで、1986年も年末となり、そろそろ翌年の放送予定も確定してきた頃、NHKの番組を見ていたら、正月の2日から4日にかけて、86年に行われたコンサートの中から、話題となったコンサートのライヴ映像を特集した番組の番宣(番組宣伝)が流れた。
「へえ、そんな番組やるんだ」と思っていたら、その番宣の中で、ダイジェストで流れた音楽を聴いて、雷に撃たれたような衝撃(実際に雷に撃たれたことはないが)が全身を走った。
「な・ん・だ・これはっ!?」

チャイコフスキーの交響曲第4番の第4楽章だった。

上部リンクは違う演奏だが、今では、そんなに驚くことはない。しかし、これを初めて聴いたときには、とてつもなく衝撃的だったのだ。
もちろん、「これは、絶対聴くぞ!」と心に決め、新年が開けるのを待った。

放送されたのは10月19日のコンサート。
協奏曲なし、一晩で大曲交響曲2曲という無茶苦茶なプログラム

その演奏は、上記のチラシにあるレニングラード・フィルの来日公演。
惜しくも、チラシにあるムラヴィンスキーは来ず、ヤンソンスの代振りだったが、そんなことはどうでも良かった。とにかく、私の関心は、あの番線で聴いた部分しかなかった。

後で聞いたら、このときはチケットの払い戻し騒動で大変だったらしい。だって、チケットの価格は、ムラヴィンスキーとヤンソンスではランクが違い、S席でそれぞれ¥18,000と¥12,000だし、チラシをよく見ると、曲目もチャイコフスキーの交響曲第5番から第4番に変更されている(ただし、チャイコフスキーの5番は、大阪公演では予定通り)。だいたい、ヤンソンス自体、日本のクラシック・ファンにはほとんど知られていなかった。ムラヴィンスキーが日本に来る前、レニングラード・フィルの指揮者としていっしょに来ていたアルヴィド・ヤンソンスの息子といわれても、「レニングラード・フィルといったらムラヴィンスキー」という方程式に縛られていたため、どうしても二流指揮者という認識しかなく、レコードも発売されていなかったので、宣伝効果はほとんどなかった。ちなみに、アルヴィドは1984年に死去している。

この時の演奏の映像は、youtubeでは投稿されれば消去の繰り返しで、安定して見ることは出来ないが、音声だけは今でも残っている(NHKでは、後に一度だけ再放送された)。

チャイコフスキーを聴くのは初めてではなく、カラヤン指揮ベルリン・フィルの再録音はエアー・チェックして通学中にウォークマンで聴いていたし、《1812年》や《スラヴ行進曲》は吹奏楽でやった。一番最初に聴いたのはピアノ協奏曲第1番。FMの映画に使われたクラシック曲特集で、ワーグナーの《ワルキューレの騎行》や《ツァラトゥストラ》と共に、映画『チャイコフスキー』に使われた作品として中学2年の時に知った。
しかし、この交響曲第4番はそれらと全く違った。民族色はあまり出ておらず、「ワーグナーみたいだな」と思った(チャイコフスキーがこの交響曲を作曲したのは、ワーグナーの《指輪》初演を見た翌年!)。

そして、しばらくは家に帰ればこの録画(父親が家電メーカーに勤めていたので、録画機の導入は割りと早かった)を繰り返し見るのが日課となった。

その後は、また吹奏楽コンクールの季節となり、一応の強豪校だったため、朝から晩まで練習に明け暮れていた。まあ、自由曲は音楽的には大したことない作品だったので、私の音楽の趣向に影響を与えるほどのことはなかった。
しかし、コンクールも終わり(もちろん、安定の関東大会出場)、文化祭や体育祭の練習はあるものの、定期演奏会(翌年の春休み前)の練習が本格化するまでは少し余裕が出来たところで、TVを見ると、またもや私の音楽の趣向に大きな進歩を与える出会いが起きた。

というところで、字数も半端ないところまできたので、そのことについては次回!

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