【心の詩歌】テニスと短歌と競技性
今度、ウインブルドン歌会というものをやります。
歌会をしたあとテニスをするという催しです。
短歌は、人と比べることが目的ではないのに、歌会をして、しばしば得点を競います。
歌会に参加せず、結社誌やマスメディアの短歌欄に投稿を続ける人もいます。
結社誌は選といって、上級者や師匠に、今月は何首載せてもらえるかという楽しみ方があります。(もちろん、それだけではないでしょう)
いずれにせよ、短歌の世界は何らかの形で「選ばれる」「上に行く」「勝つ」ということを仮想的に行っています。
テニスはその競技としての性質上、本来は試合で勝つことを目的としています。
ところが通い始めて気づいたのですが、一番テニスプレーヤーがたくさんいる場所、テニススクールでは、練習ばかりしています。
勝負ではないはずの短歌が勝負の要素を取り入れ、
球技を学ぶテニススクールは練習を主としている。
面白いものです。
ただしテニスの方が、人と関わるのが「必然」で、短歌については孤独に突き詰めることも可能です。
人と関わるのが必然のテニス。
ちまたのテニスイベントには男女の出会いに特化したイベントも多く見受けられます。
純粋なテニスイベントだと思ってイベント内容を見ると「20代女子募集」とか「男子は中級者以上のみ」と書いてあったりして、大っぴらさにたじろぎます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?