「先生」は苦手だ……それが感じさせる「画一性」から遠ざかるために

アップダウンの激しかった今週。今回はそのなかで感じたことを備忘録的に整理しておきたい。「先生」という言葉を入り口に、価値観の多様性を真に受け入れることの大切さ、難しさについて考える。

■ 前職時代の苦い経験

前職ではお金にかかわる交渉事に長く従事していた。

お金が絡むとその人の「素」の部分、特に負の側面が強く前面に出ることを経験的に学んだ。

ふだんから指示することに慣れている人、「先生」と呼ばれる人が相手方になったとき、(あくまでも「傾向」ではあるのだが)交渉の難易度が格段にアップする。物事の良し悪しではなく、他人の意見を「聞き入れる」ことに苦痛を覚えるからだ。

もともと得意ではなかった「先生」が、前職での経験の積み重ねによって、さらに苦手な存在になった。

■「先生」と呼ばれるようになって

会社員という働き方を辞めてから、ビジネスパーソンの人材開発や受験生のサポートに携わるようになり、「先生」と呼ばれる機会が増えた。

未だに慣れないどころか、背筋が寒くなることさえ少なくない。

心に染みついたトラウマはまるで食べこぼしのケチャップソースのように、どれだけ洗ったつもりになっても決して落ちることがない。

一度「先生」と呼ばれることに満足感を味わってしまうと、例えは下品だが
マスターベーションを覚えた猿のように堕ちていく気がする。
(心のなかで、世界中の猿に「ごめんなさい」をいいます。)

だから私は、極力「先生」という言葉から遠ざかるようにしている。

ちなみに、私が日ごろからお付き合いしている研修会社は基本的に、講師を「先生」とは呼びたがらないし、受験のサポートを行っている進学塾でも、「さん」づけで呼ぶことを基本としている。

だからこそ、心の負担なく続けることができている。

■「教える」と「共に学ぶ」のちがい

言葉の問題が本質ではないことは理解している。

とはいえ、言葉が、その直接的な意味とは異なる概念やイメージなどを強く喚起することもまた事実である。

「先生」という言葉に関していうならば、そこに私が感じるのは一方向的な「教える」であり、それはさらに、自分の言葉を理解させる、自分の意図に沿うように行動させる、といった画一性の実現を危惧させる。

私が大切にしているのは「共に学ぶ」姿勢であり、仕事で出会った方々や、受験生からも、日々多くの学びを得ている。自分とは異なる価値観や感性に触れることはそれ自体が素敵な体験であり、双方向の学びによって価値観の多様性を真に許容できる社会の実現にわずかながらも貢献したい。

そんな動機がなくならないことを、常に意識し自分を戒めている。

■「多様性」が突きつける困難をいかに克服するか

とはいえ、異なる価値観にもとづく意見を収集→収拾しながら日々の業務を円滑に運営していくことは簡単ではない。

良くも悪くも「横並び」が染みついたこの国において、例えば、同じ職位のメンバーの役割に差異を認める、などといった考え方には反発が根強い。

しかしながら、それは概ね「管理する側」の都合であって、その背景には、画一性への志向が今も根深くはびこっているように思えてならない。無論、組織の目標はひとつであるべきだが、その目標達成への関わり方は必ずしも同じである必要はないだろう。

規模の小さな組織では、役割が個人に紐づいている=そもそも各人の役割が異なっているケースもあるだろうが、私がいう「関わり方」には、たとえば「モチベーションの強度」のような内面的な要素も深く関係している。

「全員が同じ時間内に同じものを食べる」ような給食システム的思考では、モチベーションの強度を問題にすることさえ難しい。

多様性を取りまとめるというそもそもの困難にたどり着く前に、旧式の思考システムから脱却できずにもがいている。それが「先生」が私に連想させる困難であり、だからこそ言葉から遠ざかることで、「同じ時間内であれば、誰もが好きなものを食べてよい」思考へと近づいていきたいと思うのだ。

克服までには時間がかかるとしても、日々前進だけは続けていたい。


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