ノーウェイブとニューウェイヴ
前節ではフリクションのレックを取り上げることで、1970年代後半までの東京とニューヨークの温度感の違いを浮き彫りにすることで、当時の音楽的状況の変化や、坂本龍一とPASSレコードの微妙なスタンスの違いを明らかにした。
それでは、レックがニューヨークアンダーグラウンドシーンの空気を東京に持ち帰えるべく帰国した2年後の1980年、坂本龍一の音楽的な興味はどこにあったのだろうか。
上記引用のコメントにあるとおり、坂本龍一は後藤美孝と共鳴しながら、イギリスのニューウェーブに興味を持っていたのである。
この頃のYMOは2回目のワールドツアーの最中、東京でも話題となり、1980年に入ってからは、ライブアルバム『パブリック・プレッシャー』がオリコン1位を獲得し、過去のアルバムもすべてチャートインするなど、すでにYMOブームは到来していたのである。
1979年9月25日にリリースされ、1980年7月14日にはオリコン1位となる、YMOの2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』について、細野晴臣は次のようにコメントしている。
このように坂本龍一がPASSレコードをコラボレーションする1980年は、ニューヨークのパンクシーンで生まれたノーウェイブではなく、イギリスを中心としたニューウェイヴが最先端の音楽として流行りつつあったのだ。
実際、フリクションがその中心的存在であった「東京ロッカーズ」というムーブメントも坂本は興味がなかったようである。
そして興味深いのは、PASSでのプロデュースワークと自身ソロアルバム『B2-UNIT』への影響を明確に否定している点である。
これはPASSでのコラボレーションを、『B2-UNIT』制作の起点とする後藤美孝の見解とは異なる。
それでは『B-2 UNIT』の制作にあたり、坂本龍一と後藤美孝に共通点はなかったのだろうか。この点について次節で検証していきたい。
アンディ・パートリッジという共通項
坂本と後藤をつなぐ共通項は、アンディー・バートリッジである。
実はXTCのアンディー・パートリッジの『テイク・アウェイ』が『B-2 UNIT』のモデルとなっていたのだ。
後藤がこう語る一方で、坂本龍一もアンディ・パートリッジの影響についてストレートに言及している。
実際にXTCのアンディ・パートリッジや、スリッツやザ・ポップ・グループをプロデュースしていたデニス・ボーヴェルなどをゲストに迎えることになる。
破格ともいえる条件でのソロアルバム作成が実現した背景には、アルファレコード副社長でYMOのエグゼクティブ・プロデューサーだった川添象郎の特別な図らいがあったことは否定できないだろう。
それは坂本龍一が2回目のワールドツアーに参加しないと表明したためである。
たしかに坂本はYMOの脱退を決意したと後に告白している。
こうしてYMOの大ヒット、それに続く坂本のYMO脱退騒動により、ブリティッシュ・レゲエやニューウェイヴのアーティストを中心に、坂本龍一の海外ミュージシャンとの交流が本格化したのだった。