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坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑭

B-2 Unitsとダンスリー NHKで放送されたB-2 Unitsの公開収録を参照しつつ、同バンドについて、更に深く掘り下げていきたい。 まずはB-2 Unitsが結成された経緯を、前出とは別の資料より振り返ってみよう。 当初は『B-2 UNIT』のような音楽を志向したものの、次第に『左うでの夢』の音楽性に接近。最終的には即興性を重視したバンドになったようである。 公開収録のMCで、バンド名は立花ハジメによる命名であると坂本が発言しているが、上記の事情が関係している

    • 坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑬

      B-2 Unitsと立花ハジメ 『左うでの夢』のレコーディングを通じて、ロビン・トンプソンが加入したB-2 Unitsとは、どのようなバンドであったのだろうか。バンド結成のキーパーソンとなった立花ハジメにフォーカスしながら、この点を探求していきたい。 ロビン・トンプソンらとのレコーディングによって、打ち込みではなく、セッションの面白さに目覚めた坂本であったが、バンド結成の直接のきっかけは、立花との以下のやりとりにあった。立花はインタビューでこう証言している。 このように

      • 消えゆく音、終わらない音楽――『Ryuichi Sakamoto | Opus』の公開に寄せて⑤

        楽曲解説 Lack of Love BB Andata Solitude for Johann Aubade 2020 Ichimei - small happiness Mizu no Naka no Bagatelle Bibo no Aozora Aqua Tong Poo The Wuthering Heights 20220302 - sarabande The Sheltering Sky 20180219(w / prepared

        • 消えゆく音、終わらない音楽――『Ryuichi Sakamoto | Opus』の公開に寄せて④

          楽曲解説 Lack of Love BB Andata Solitude for Johann Aubade 2020 Ichimei - small happiness Mizu no Naka no Bagatelle Bibo no Aozora Aqua Tong Poo The Wuthering Heights 20220302 - sarabande The Sheltering Sky 20180219(w / prepared

        坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑭

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑫

          もう一人のロビン 共同プロデューサーのロビン・スコットの他に『左うでの夢』では、もう一人のロビンが登場する。ピーター・バカランの紹介でアルバムに参加したロビン・トンプソンである。 ロビン・トンプソンは、ピーター・バラカンのイギリス時代の友人であり、レコーディングを見学しに来たことがきっかけで、急遽レコーディングのメンバーに加わった。ロビン・トンプソンはマルチ・プレイヤーであり、サックス、笙(しょう)、纂策(ひちりき)など様々な楽器を、このアルバムで演奏している。 これを

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑫

          高橋悠治+坂本龍一『長電話』の復刊に寄せて

          電話もない、本もない 40年前の長電話が今に蘇る―― 通話アプリや電子書籍の普及により、かつてのような電話も書籍もなくなりつつある現代に―― 高橋悠治と坂本龍一の対談を収録した『長電話』(1984年5月15日)が、およそ40年の時を経て、2024年8月30日に復刊される。 この復刊にともない「書容設計」は大幅に変更される。坂本龍一本人による装丁ではなく、同じ版元より刊行された『坂本図書』に倣ったデザインとなる。 オリジナルの『長電話』の装丁は、一見して控えめな印象も受

          高橋悠治+坂本龍一『長電話』の復刊に寄せて

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑪

          JAPANからの影響と『B-2 UNIT』との連続性 1981年10月5日にリリースされた3rdアルバム『左うでの夢』は、2ndアルバム『B-2 UNIT』(1980年9月21日リリース)と4thアルバム『音楽図鑑』(1984年10月24日)という評価の高い作品の間に挟まれている。そして同時期にリリースされて名作として名高いYMOの『テクノデリック』(1981年11月21日)と同じタイミングで発表されたことから、印象の薄い作品となってしまったことは否めない。 このアルバム

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑪

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑩

          1981年の『NEO GEO』 坂本龍一は、『NEO GEO』を発表後、国内4か所でツアーを行っている。このツアーパンフレットで、坂本は、音楽で新たな世界地図を創造すると、高らかに宣言した。 1987年にニューヨークと東京でレコーディングされた『NEO GEO』は、国際色豊かなアーティストが参加し、そのような誓いを実現した作品となった。 しかし新しい地図は、いつどのようにして出来上がったのだろうか。 ソロアルバムのレコーディングで坂本が共演したアーティストを時系列で取

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑩

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑨

          坂本龍一とデヴィッド・シルヴィアン 前節ではNEO GEO(Neo Geography)的な観点から、坂本龍一とニューヨークの距離感について、『B-2 UNIT』をレコーディングした1980年では、坂本の心理的な距離感としては、ニューヨークよりロンドンの方が近かったという議論を展開した。 このことは、ロンドンでレコーディングし、デニス・ボーヴェルやアンディ・パートリッジなどイギリスのアーティストがアルバムに参加したことからも明らかである。 『B-2 UNIT』のレコーデ

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑨

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑧

          坂本龍一と遠ざかるニューヨーク 少し脇道にそれながらも、『NEO GEO』に至るまでの坂本龍一の海外ミュージシャンとの交流について検討してきた。本節ではその概要について取りまとめていきたい。 ソロアルバムでの坂本の海外ミュージシャンとの初めてのコラボレーションは、XTCのアンディ・パートリッジとマトゥンビのデニス・ボーヴェルになる。 それぞれのミュージシャンと坂本龍一との接点は以下のようなものである。 アンディ・パートリッジについては、ソロアルバム『テイク・アウェイ』

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑧

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑦

          ノーウェイブとニューウェイヴ 前節ではフリクションのレックを取り上げることで、1970年代後半までの東京とニューヨークの温度感の違いを浮き彫りにすることで、当時の音楽的状況の変化や、坂本龍一とPASSレコードの微妙なスタンスの違いを明らかにした。 それでは、レックがニューヨークアンダーグラウンドシーンの空気を東京に持ち帰えるべく帰国した2年後の1980年、坂本龍一の音楽的な興味はどこにあったのだろうか。 上記引用のコメントにあるとおり、坂本龍一は後藤美孝と共鳴しながら、

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑦

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑥

          NYアンダーグラウンドシーンと東京をつなぐレック 前節ではPASSレコードでの一連の活動を、『B-2 UNIT』までの助走であると論じた。後に『B-2 UNIT』の共同プロデュースしたPASSレコードオーナーの後藤美孝がそのようにコメントしていることに加え、当時の坂本が抱いていた「アンチYMO」の萌芽を、この時期に見いだすことが出来るからである。 アンチYMOが『B-2 UNIT』で具現化されたとするのならば、フリクションやPhewのプロデュース、グンジョウガクレヨンのダ

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑥

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑤

          B-2 UNITへの助走 前節では1978年の加藤和彦プロデュースの野田テレサのジャマイカでのレコーディングが、地理的距離感と心理的距離感のねじれという、NEO GEO的体験の原初であったと記した。 ここでは本題に戻して、坂本龍一の本格的な海外レコーディングについて詳細に取り上げていきたい。 坂本龍一の本格的な海外レコーディングは、1980年リリースの2ndアルバム『B-2 UNIT』となる。このアルバムのカギを握る人物は、共同プロデューサーとしてクレジットされている後

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑤

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて④

          坂本龍一の海外ミュージシャンとの交流 前節では1984~1988までを振り返ってみたが、一度ここで視点を改めよう。 近藤等則は、YMOがデビューした1978年にはNYに一時的に移住、NYのアヴァンギャルドな音楽家と交流し、1981年にはビル・ラズウェルとアルバムを制作している。1984年には、ビル・ラズウェルをミキサーに迎え、自身のバンド、IMAで『大変』をレコーディング、1986年にはビル・ラズウェルのプロデュースで同バンドのアルバム『混沌』をリリースするなど、坂本龍一

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて④

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて③

          「TOKYO MEETING 1984」、そして1985年のインクスティック・セッション 坂本龍一とビル・ラズウェルの初共演は、近藤等則主催のイベント「TOKYO MEETING 1984」であり、これがきっかけとなり、『NEO GEO』の制作に繋がっていったという背景について、これまでに記してきたとおりである。 『NEO GEO』のリリースが1987年であることを考えると、「TOKYO MEETING 1984」以降の3年間では両者のどのような交流があったのだろうか。本

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて③

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて②

          坂本龍一とビル・ラズウェルをつなぐ近藤等則、そして生田朗 前節では、坂本龍一とビル・ラズウェルが出会ったきっかけは、1984年に近藤等則が主催した「東京ミーティング1984」であると言及した。このイベントで、坂本龍一はビル・ラズウェルと共演を果たし、坂本龍一のマネージメントを担当した生田朗を介して、本格的に関係を深めていくことにになる。 それでは、近藤等則とビル・ラズウェルはどのように出会ったのだろうか。そして、近藤等則と坂本龍一にはどのような関係性があったのだろうか。

          坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて②