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坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑩
1981年の『NEO GEO』
大地の束縛を離れて、柔らかに地球の上を浮遊する地図。ロンドンの隣に東京があり、東京の横にはパリがあり、パリの隣にはアラビアがあり、ニューヨークは、インド洋に浮かんでいる。そんな自由な地図、誰も見たことない地図。それを作りたかった、まず音の世界で。
坂本龍一は、『NEO GEO』を発表後、国内4か所でツアーを行っている。このツアーパンフレットで、坂本は、音楽で新たな世界地図を創造すると、高らかに宣言した。
1987年にニューヨークと東京でレコーディングされた『NEO GEO』は、国際色豊かなアーティストが参加し、そのような誓いを実現した作品となった。
しかし新しい地図は、いつどのようにして出来上がったのだろうか。
ソロアルバムのレコーディングで坂本が共演したアーティストを時系列で取り上げることによって、坂本が描いた世界地図が出来上がる過程を検証し、その疑問に答えるのが本稿の目的である。
前節では1980年にリリースされた『B-2 UNIT』を通じて、1980年の『NEO GEO』について検討した。それは、冒頭で引用したNEO GEO TOURパンフレットに倣えば、「東京の隣にロンドンがあり、ロンドンの横にはジャマイカがあり、ニューヨークは大西洋の遠く向こうに位置する。」と表現できるような世界であった。
3rdアルバム『左うでの夢』をリリースした1981年、坂本の音楽地図はどのように変化していったのだろうか。『B-2 UNIT』と同様、アルバム作成の経緯や参加アーティストについて丹念に議論を展開することで、その点を明らかにしていきたい。
初の共同プロデュース
それは一本の電話から始まった。『B-2 UNIT』を聴いて気に入ったロビン・スコットが一緒にレコードを作りたいと、坂本龍一に電話で連絡をしてきたのだ。ロビン・スコットのユニット「M」の「Pop Muzik」(1979年)が好きだった坂本は、このオファーを快諾する。
1981年の初めにこのオファーがあり、レコーディングは7月6日から8月18日にかけて東京で行われた。YMOの『TECHNODELIC』のレコーディングは3月21 日から10月13日とされているが、「体操」のデモを録音しただけで、その後はソロ活動に移行し、レコーディングが再開されたのは8月末となった。
つまり、Studio "A"で『左うでの夢』のレコーディングを終えた後、坂本は同じスタジオでYMOのアルバムを制作していたのである。リリースは『左うでの夢』が10月5日、『TECHNODELIC』が11月21日となっており、およそ1か月の間隔で、坂本龍一とYMOのアルバムがリリースされたのである。
先述のとおり、同時期のソロとYMOのアルバムのレコーディングは今回が初めてではない。ソロの『千のナイフ』とYMOの『イエロー・マジック・オーケストラ』も同じタイミングでレコーディングしていたのである。
続いては参加アーティストについて言及していくこととしよう。
ギターリストとして、エンドリアン・ブリューが参加している。トーキング・ヘッズのサポートメンバーとして来日した際のステージを見て、坂本が気に入ったことがきっかけである。
エイドリアン・ブリューはインタビューで、坂本より電話でレコーディング参加のオファーがあったことや、YMOや坂本龍一の音楽については少し聴いたことはあったものの、あまり詳しくなかったことを語っている。もっとも飛行機の中で読んだ「Life」誌にYMOが大きく取り上げられていたとも回想している。
エイドリアン・ブリューは1978年にデビッド・ボウイのサポートギターを務め、1980年には、ブライアン・イーノがプロデュースしたTalking Headsの『Remain In Light』に参加。1981年にはキング・クリムゾンのメンバーになっていたことを踏まえると、貴重なタイミングで坂本のレコーディングに参加していたことが判る。レコーディングには、7月20日、7月21日、7月23日~7月25日、7月27日、7月28日に参加し、YMOのメンバーともセッションした。
ところで、デビッド・バーンがリーダーを務めるトーキング・ヘッズは、アート・リンゼイのDNAと同じくCBGB出身のニューヨークのバンドである。
ここで重要なのは、トーキング・ヘッズの来日コンサートを観に行き、その後、サポートメンバーのエイドリアン・ブリューとレコーディングしたという事実である。
坂本龍一とニューヨークの距離が縮まった出来事であるように思えてならないのだ。
こうして坂本の音楽地図は、1987年の『NEO GEO』に向けて、少しづつ塗り変わっていくのであった。
参考文献
『サウンドストリート』(1981年4月7日放送)
『サウンド&レコーディング・マガジン』(1989年11月号)、28p
『サウンドール』(1980年10月号)、110p-111p
藤井丈司『YMOのONGAKU』、165-166p
『サウンドール』(1980年10月号)、111p
『サウンドール』(1980年10月号)、110p