吐露
吐露。読んでいる本の舞台が京都で、見知った地名やその土地でひらかれるイベント名が出てきたりする。形容しがたい気持ちのまま字を書いている。
4年と少し住んだあの街を離れてから、良さと、そこにあった苦しさに気付く。都会ならではの良さがあって、京都だからこその良さがある。京都市内は良くも悪くもコンパクトで、どこに居ても誰かに会うかもしれない、その可能性が良さであり怖さだった。それがどんなに親しい友人であっても、そもそも想定外のことが起こることが怖いのだった。度々人との距離感を間違える私にとっては合わない部分だったのかもしれない。
清濁併せ吞んだ4年のせいで、「京都」に対して必要以上にノスタルジーを感じている気がする。結局最後まで通り名の順番は覚えられなかったのに、エセ関西弁だけは染み付いてしまった。何個もあるバス停もその順番もいつの間にか覚えていたのに、それらを全部かなぐり捨ててきたことに今さっきやっと気づいたところだった。
あの街に戻ることはあるのだろうか。嫌いじゃないけど好きでもいられない、そういう感情を抱いている。故郷に抱くような感情と似ているし、きっと戻れば一定の安心感もあるのだろう。 私が思い出す京都は、過去の記事(「ぐっばい」)に書いた京都で、そういう意味ではもうそこに愛した街は無い。
どうして、ただ暮らしているだけで「会いたくない人」は出来てしまうのだろう。それがないだけで随分生きやすくなる気がするのにな。
そうやって本文以外のところで惑ってしまうから、この本は読めないかもしれない、と思った。
いま暮らしている町もいつかまた出ていくのだろうと思っている。一か所に留まる生き方が本当に向いていない気がする。どこにでも思い出が転がっていて、言いようもない苦しさがあるのは本当に厄介だ。方言は私を排斥する。あちらにもなれずこちらにもなれない。ずっとそうやって生きていく気がしてしまう。
部屋、という入れ物に、自分と、自分が大切に思うものがあればどこだってすぐ家になる。仮に後者がなくても自分さえ居れば物理的に居場所はつくっていけてしまうし、そうしないと生きていけない。簡単なことだった、簡単なことだから難しかった。
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緊張する予定が続いて、食品を見るだけで吐き気を催していた人間が、今ではあっさり食欲を取り戻している。良かったけど太りたくはないな。太ることへの強迫観念じみた気持ちがある。(それもあって自ら酒を飲むことが全くなくなった。)大丈夫かな、大丈夫じゃない、大丈夫だ、確かめながら1日ずつ生きている。
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自己嫌悪していれば許されるわけではない。もう子供扱いもされない、何かどこかが決定的に大人になってしまった。
お金がもったいないのでメンクリ通いをやめたい。純粋に健康であることが一番経済的だ。
今年はずっと忙しなくしていて、本当に今年の頭まで大学生やっていたっけ、という感覚。若さの価値を薄々突き付けられながら、まだ無自覚だという自覚がある。これもまた少しずつなくしてから気づくものなのだろうか。 今年の頭にたてた目標を忘れてしまった。「生存」だったような気もするし、もっと具体的な目標だった気もする。noteを振り返れば分かる気がするけど、そこまでの関心も無いのでした。
私はあなたではなく、あなたもまた私ではない、という事実によってのみ人は繋がれるのかもしれないと思いました。寂しいですね。
ずっと強がって強がりきれずにぐじゃぐじゃと生きてきたけれど、最近は、今までに比べればずっと素直になった。言い方を変えれば子供になった。不快感を不快なまま表出させてしまうのは良くないので改めたい。 人に向かって「寂しい」と言えてしまうようになった。寂しい自分を認めてしまった。それが良いことか悪いことかは分からないし、吐き出すことで背負わせてしまうのは申し訳ないけれど、一人で抱えるよりずっと楽だと思った。
残暑~。こちらは雨が多いです。洗濯洗剤を部屋干し用に切り替えなくては。皆さんは元気ですか。ではまた。