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思案 7/3
夜中に明るい場所があるってのはそれだけでなんとなく安心する。スーパーやコンビニをはじめとする24時間営業の店は深夜の私の避難所で、そういう人間はきっと少なくないのだろうと思う。蛾のように引き寄せられた私のような人間が、凡そ一年半ほど前からどこか逃げ場を失って、生きづらさとか息苦しさとか、飲み込んでしまえる程度の黒い言葉がどこにでも転がっている気がする。小学校にある二宮金次郎のほうがまだ生気がありそうなほど項垂れて固まっているおじいさんとか、ポポちゃん人形をベビーカーに入れて大切そうに歩くおばあさん、そうした人たちを無邪気に笑う怖さをいつからか覚えた。その感覚を知ったことに後悔は全く無いけれど、それまでに傷つけてきたかもしれない可能性を数えて吊るしては恐ろしく思う。どんなことも他人事ではない、ただ、今は、たまたま私じゃない。そんなことばかりだ。
ファストフードやお惣菜を作ってくれる人に無限の感謝を覚える。売り場をはじめ調理工程に係る人、それが出来るまでに関わる人達のおかげで今日もこうして私はがんばらずに生きられている。ありがとうございます。
怖い怖いと思っていても言っていても仕方がないのにそればかり言って簡単に逃げてしまう自分がいる。「生きているだけで偉い」とか「ありのままでいい」とか、本当に簡単な肯定の言葉ばかりが溢れて飽和している。少し前まで同じように考えていたし、今もその考えや安直な肯定が与えてくれる安心感を何かで代替することは出来ないのだけど、「そんなわけないだろ」とどこかで思ってしまう。ずっと前に好きなアーティストが言っていたように、私もまた、「みんながAにいるから私はBの立場をとる」みたいなことに変わりないけど、「それはそうなんだけど、そんなわけはないだろ」という考えになった。簡単な肯定はそれを貰い続けたらそこに依存して安住してしまうと思う。停滞は死と相変わらず思っている。揺蕩い戸惑いながら、遠回り、どこにもない道をどうにか掘り進めて自分なりに地図を作っていかなくてはならない。「ありのままでいい」って言っていいのはありのままを更新し続ける人間だけだ。そこを勘違いしてはいけないし、そこを勘違いさせる可能性を潰したうえでその言葉を用いるべきだ。甘いだけの言葉が優しくすくってくれるのは自分だけ、と思っても、私はまだ私の中の「嫌われたくない」を捨て去ることができない。
ままならんまま生きる覚悟が必要で、自分も他人もほどほどに大切にしながら適当に嫌うのが良いのかもしれん。分からん。最近ずっと「なんにもわかんね~」と思っている。