反吐

どうして「大丈夫」はすぐに麻痺して使えなくなるのだろう。ずっと大丈夫でいたい。ずっと。


私の部屋は生きているな、と思った。電子レンジも扇風機も毎日使うし私よりよく働いている。彼らは機械かもしれないけれど確かにそこになんらかの存在感があって、壊れたら悲しいし直そうとする。存在感のなかに命を見出だしている。私の部屋を部屋たらしめているのは、家具や服が醸し出す存在感であって、この入れ物ではないのだと思う。だから人はどこでだって生きていけてしまうし、土地に根をはりすぎると当然離れるとき痛いんだと想像した。その痛みが快感になる人も一定数いるかもしれないけど。
物や人との関係性を引っ越しは一気に整頓させてくれる。お金も手間もかかるけど、大人に許された便利機能のひとつだな、と思う。

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10月頭は多忙を極めている。愚痴も文句も出てくるし、自分の不甲斐なさとか愚かさを痛感しつつ何も出来ないでいることがつらい。つらがっていても何の留保も赦しも得られないので、自分を甘やかしながら1個ずつやっていくしかない。もっと謙虚になりたい、そう思うことこそが謙虚から最も遠い気がした。ふらふらしてへらへらして適当に、余白とか余裕とか余地とか、とにかく自分の周りを少しだけ空けておきたいのに、そういうの全部堅苦しい感じの場面になると許されなくて死んでしまいそうになる。もっと軽く生きていたいのに。


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生きているだけでどこか何かが磨り減る感覚がたしかにあって、それは万人に共通のものではないらしい。当たり前だけどそんな当たり前がひどく残酷だと思う。真面目に生きるのは馬鹿馬鹿しい。真剣に生きることは怖い。だからこそ美しい。みたいな世論に反吐が出る。評価とか判断とか、それらに対して真摯である人を心のどこかで馬鹿にしながら自分もそこにしがみつく弱っちろい愚かさに、反吐、反吐、反吐。


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許される(少なくとも責められはしない)場所を選んで自分語りしているので、現実で初対面だとかあまり親しくない人と話すのは本当に苦手だと思う。シンプルに相手に興味がなくて自己開示する気にならないのかもしれない。ひとりでは生きていけないので、ずっと、共通点を探す旅みたいな感覚がある。そして大抵の探し物は近くにあって見つけにくい。近くが誰のどこを指すのか。


最近は眠剤が無くても眠れるように戻ってきたけれど、フラッシュバックはひどくなっている気がする。もうずっとそうやって会話や普段のやらかしを思い出して悲鳴を飲み込みながら生きてきたから、考え方を変えるしかないことは理解しているけど自分ではなかなか出来ない。 思い出すことが心地よかったことなんてひとつもない。そういう瞬間から逃げるために音楽で耳と思考を塞いでいたし、今もそうしている。ライブに行きたい。逃げ出したって結局現実は目の前にあり続ける。それでも逃げたいときもある。


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楽しいことも嬉しいことも一時的な麻酔に過ぎないことに悲しくなります。すべて与太話というか、生き続けるための暇潰しに過ぎないのかとたまに思ってしまう。こういう考え方は身を滅ぼすからあまりよくないと思いつつ。考え方って劇的なイベントか日々の刷り込みによってしか多くの場合変わらないし、今日も明日もおんなじように生きていくのでしょう。せめて健やかでありたいですね。ではまた。

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