日記
茹で玉子を失敗した。もう一人暮らし何年目?しぶしぶ調べて茹で直した。食べられるといいな。いつまでもそんなことで泣いたり食材を無駄にしたりしないのだ。くよくよした強さで生きていく。そう思って茹でたニンジンは硬かった。自炊が向いてないらしい。工程をダブルで失敗して作るはずだったたまごサラダは幻になった。
p.s.茹で直すのにも失敗した。さすがに落ち込んだ。
シャワーヘッドから水漏れしている。蛇口をどれだけきっちり閉めてもぽたぽた垂れて、翌朝には大きな水溜まりを作っている。換気していても出来ているから、流れ続けるものを前に換気なんてさほど意味ないらしい。それってなんか心に似ている。
大人しく修理することにした。自分でなんとか出来ないこと、すべきでないことはあって、簡単に人に頼って、別な部分で頼られて生きていく。支え合うとかいう歯の浮く言葉よりこういう生活の断片のほうがずっと繋がりを感じる。独りで無ければ大丈夫な可能性は上がる。
死にたがりほど、しぶとい。
何かを期待して郵便受けを覗いては乱雑に詰め込まれたチラシチラシチラシ。でも何もないことに安心もする。
人のこと、基本的に羨ましいし、それを見せないように表面を繕う自分は卑しい気がしてしまう。清廉潔白であることは時として悪になりうるのに。
こないだ、漫画で「一生懸命なときは皆ダサい」という言葉を見た。それなら私は人生単位でずっと頑張っているのかもしれないと思えた。でもダサダサの人生だなぁ。煌めきもしないが、吹けば飛ぶほど軽くも無く、プライスレスというより無価値という尺度で意味を感じない。人生には基本的に意味は無いと思うし、だからこそ意味を探したりそこに不安を感じたりするんだと思う。何を書いてもいい、社会という私が罰すること以外。
同じく漫画で、「否定し続けることは肯定し続けることと同じ」という言葉を見た。文脈としては違う違うって内心言い聞かせているときにその返事として用いられた言葉だった。でも、自己嫌悪してしまうずぶ濡れの人をさらりと受け流す風みたいな軽さがあって、良い言葉だと思った。
人生、も、出来事も、自分も、否定し続けても別に良いんだって思えた。だってそれは肯定の裏返し。
そうした自己否定の暗示が肯定に転じるなら、まっすぐ、あけっぴろげに、所詮私はこんな人間ですって言ってしまった方がスッキリする気がした。簡単には出来ないけれど。
もう27冊目になる日記をいい加減処分しようと思って躊躇う。見返すこともないし、涙の跡でぺりぺりになったページもある。生きてきた証になってくれている気がするけれど、古いものはもう無くても良い気がしてしまった。もう大丈夫だ、と思う。
いつか全部遺品になるなら早めに処理してしまった方が良いと思った。とか言って捨てられない日々が続きそう。
水だしのお茶を作るようになった。丁寧な暮らしではなくただの節約のため。色の移り変わる様を見てワクワクした。
微妙な気温が続いて少し喉を痛めています。こういうのは早めに治した方がいい、おやすみなさい。