周回遅れ等 6/9
カルボナーラはローソンのが一番うまい、名前がよく変わるけど結局あれが一番おいしい、読み終えた本について語りたいけれどいつもそれらを惜しんで結局自分のことを書いている。今猫たちに妨害されながらこれを綴っています、皆さまお元気でいらっしゃいますか。
お気に入りの映画の円盤が結構前に届いて、劇場で見て感想を下書きに書いたきりになっていたので、見返してまた投稿したいと思う。好きなもの、自分の糧になっているものは誰かに伝えたいけれど自分だけのものにしておきたい気持ちもあって、それらがいつもせめぎあっている。
*
スーパーの屋上とかそのへんから出来もしない飛び降りの妄想をして小さく平和をぶち壊してみる。ちいさいちいさい自分がいる。
*
生活のおおよそ最低限以下を照らす田舎の街灯になぜか安心する。ここにいてもいいけど、ここにいなくてもいい。どこにいたっていいけど、どこにもいなくていい。
当たり前のことに何度も気づいて傷ついて、呆れたころにようやく染みついて、そういう繰り返しでどうせ生きていけてしまうんだ。最悪だ。最悪か?
*
シャワーヘッドが新しくなっていた。勉強机はなくなっていた。ピアニカもリコーダーも、確かにもういらないけど、ないならないでさみしかった。絵具もなくて、制服もない、じゃあ一体この家に私のなにが残されているのだろうか、何もないけれど居場所をねじ込む余地はなぜか残っていた。
愛とか家族とか考えだしたらばかばかしくて吐き気がする。そんなもん、だし、その程度のもん、だし、そういうものにふいに掬い上げられたりして悔しくなる。どうも拭い切れない悔しさが人生のいたるところに落ちている。
自分以外のみんなが眩しく見えるのはどうしてだろう。生きているだけで後ろめたい気持ちになるのはなぜだろう。どうして私だけみんなと同じ速度で生きられないのだろう。こういう悲しさを表に出すことが無いからってまるで純粋な人のように扱われて、そのままでいてほしいなんて言わないでほしい。ついていけない、おいていかないでほしい、でも息を切らして走っていたらそんなこと言う余裕もなかった。いよいよ周回遅れの投げやりな気持ちで息だけしている。生かされていて申し訳ないな、到底前を向けそうにない。
それでも一時期に比べたらずっとマシだって思いながら生きちゃってるな。やっぱり死にたいと思った人間はそこで一度死ぬんだろう。思う前と思った後は全然景色の違う人生だと思う。
嫌われたくないし、自分が何かを克服したり強くなるたびに、そうでない人に対して厳しくなってしまいそうになるのをやめたい。今の私にとっては「そんなこと」でも過去の自分にとってはそうではなかったし、それは他人にとってもきっと同じなんじゃなかろうか、今日も諸々思案しながらこの文を終わります。