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他人を生きたい人たち
個性だ、ライフデザインだ、と「個」の主張が騒がれる昨今だ。でも本当に自分と向き合えている人、または、本当に自分と向き合いたい人なんているのだろうか。もしかしたら数は多くはないかもしれない。
なぜなら自分と向き合うことは、想像以上に骨の折れることだから。
先日、弁護士が出てくる映画を観た。弁護士の仕事と言えば、依頼主の相談事にのって法的にトラブルを解決すること。他人の人生を覗き見る仕事の代表とも言えるだろう。作品のなかで、弁護士が仕事にのめり込む理由を考えるシーンがあり「気が紛れる」と言っていた。
他人の人生を考えることで、自分の人生と向き合うことを紛らわすことが出来るのだ。
これは共感できる感覚だと思った。
私は映画が好きで、最近は数日おきに作品を鑑賞しているけれど、ぶっちゃけ「映画鑑賞」という行為も気がラクなのだ。物語には主人公が用意されていて、その人の人生を見ているだけでいいから。自分の人生を考えるスパイスにはなったとしても、本当の意味で向き合えているわけではきっとない。
もしかしたら世間で野次馬と言われる人々も自分の人生を考えたくなくて、世の中や他人で気を紛らわしたいだけなのかもしれない。
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自分と他人の線引きをするときに、必ずと言っていいほど用いられる「アイデンティティ」という言葉。
私がアイデンティティを考えるとき、一番納得できている考え方がある。社会学者であり東京大学名誉教授でもある、上野千鶴子先生の説である。
アイデンティティとは「自己証明」のこと。本来アイデンティティを求められるのはあなたを管理する立場の人からである(履歴書などはそれにあたる)。しかし一貫したアイデンティティは実は要らないのではないか。矛盾があってもそれが自分の豊かさの証拠(=脱アイデンティティ)。こっちの私もあるし、あっちの私もある、と逃げ道を作ることが重要。
自分の人生を考えることが骨の折れる作業なのは、きっと自己矛盾に悩むからだと思う。
自分の人生は筋が通っていない、何もやり遂げていない、どこへ向かっていいか分からない。そんな不安は恐らく、カチコチの履歴書的アイデンティティに囚われているからなのだ。
そこを脱してしまえば、何だってアリへと早変わり。むしろ上野先生はその状態こそが「豊か」であるとも言っている。整然と語れることが大切なのではなく、矛盾も全部ごちゃごちゃっとした実態で賑わっていればいいじゃないかってね。
存在すべてを包み込んでくれるようなそんな考え方が好き。
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最近偶然にも、先述した上野先生の言葉を思い出させてくれた映画に出会った。11月に公開されたばかりの『ある男』だ。この作品はアイデンティティや人生全般を考えたい人にぴったり。
簡単にあらすじを言うと、生前ずっと夫だと思っていた人が全くの別人であることが発覚し、本当は誰だったのかを追っていく内容。ミステリーぽく思えるけどそういう感じはなく、どちらかというと社会的な話。
もちろん夫の正体を知ろうと妻は必至になって調べていき、結果的には誰だったのか?なぜ正体を隠す必要があったのか?もしっかりと明かされる。夫の正体が無事に明かされたあかつきに妻が発した言葉が真理だと感じた。
「結局知っても知らなくてもどっちでも良かったのかもしれません、ここで夫と過ごした時間は変わりませんから」
恐らくこういうことだろうと思う。
正体がどうとか、書類に書ける一貫性とか、そういうのを脇に置いておいて、確かに「その人がそこにいた」という事実そのものが自己であり人生なのだろうと思うのだ。
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