人を撮ることを勝手に難しくしたのは誰ですか
どうもこんばんわ、岡本 晃です。
先日書いた記事は注目に取り上げていただいてたくさんの方に見ていただけたみたいで、素直に嬉しくって喜んでいました。
ありがとうございます。
今のところグループ活動が多いのですが、これからは「岡本晃」という個としても駆け出さなきゃいけないと思い始めたところで書いたものだったので、この出来事は一人でこっそり有頂天になってました。
今日のお話
今時刻は9月24日深夜1時。
YouTubeの動画編集をしながら、故郷の写真を見直していたら、どうしようもない気持ちが蘇ってきて、この沸いた気持ちがどこか遠くに行ってしまわないように、留めておくためにキーボードを打ち始めました。
このフツフツとした正体を先にはっきりと伝えておきます。
「もう会えない人の写真を自分が撮ってなくてどうしようもない後悔が今押し寄せている」
今日のお話の結論は、「身近な人や大切な人をとにかく撮りませんか?」ということ。
あなたは人を撮りますか
写ルンですのようなフィルムカメラ、一眼レフカメラ、スマホ、キッズカメラ、チェキといろんなカメラがありますが、あなたはどれかで撮っていますか?
毎日でも、1週間に1回でも、1年回に1回でもなんでもいいんです。
もし撮っていたら見直してみてください。
大切な家族やご両親、親友はそこにいますか?
過ごした家や風景や思い出のモノを写していますか?
いなければ必ず撮って欲しいなって思います。
仕事じゃなければ技術なんて必要ない、、、です。
世間一般に言われる「上手だね」ってのもどうでもいいくらい。
昔は8時間、今は1/1000秒でも撮れる
写真の起源は15世紀あたりになるって知ってましたか。
詳しくは割愛しますが、カメラ・オブスキュラと呼ばれた装置に映った景色を人間がなぞって手書きしていたことが、目の前の事象を「写真で残す」ことの始まりだそうです。
その後1826年、フランスのニエプス兄弟がカメラ・オブスキュラを改良し、道路ほ装の材料として使われるアスファルトを感光材料にして、およそ8時間もかけて1枚の写真を撮影したそうです。
※詳しくは巻末に資料リンクを貼っておきます。
昔から人間という生き物は、そんな時間をかけてでも残したい景色や人や街並みがあって、そのために「写真」が生まれた。
22世紀になった今も何も目的は変わっていないし、撮るものも変わっていないけれど、確かに変わったといえることがあります。
それは、化学の発達によって圧倒的な撮影時短と撮れる枚数が桁違いに増えたこと。
あなたが撮ることに意味がある。
僕が写真を始めたのは、大学卒業間際。
それまで、「写真を撮る」という行為が僕の活動には存在していなかったくらい縁がなくて、実際悲しいくらい大学生までの写真は少ない。
それはまるで自分が生きてきたことや思い出を証明できるものがない、と感じるほどでした。
そこまでのことを思ったのは大好きだった祖父・祖母が亡くなった時、スマホのカメラロールに二人の写真が無かったことに気づいたことがきっかけ。
気づいたと同時に「僕と祖父・祖母の思い出や繋がりを証明するには、自分が撮らないと意味がない」ことを知り、どうしようもない気持ちが暴れて寂しい気持ちが溢れていました。
誰がどう撮っても、それをあなたが良いというなら素敵だ。
でも、それだけではないと思う。
だけではないと思うから、タイトルを「人を撮ることを勝手に難しくしたのは誰だ」にしました。
もしかしたら、僕もそうした一因に加担しているかもしれないけど。
特別な旅先やおしゃれなお店やカフェじゃなくていい。
お家やお庭、軒先。
どこでもいいから、大切な人と共に過ごした時間を撮ってください。
あ〜撮ろうと思ったら撮らない理由なんて考えなくていいから。
たとえ撮らせてもらった人に、そんなん撮ってどうするん?って言われてもいいんです。
それがいつか訪れるその人との一生のお別れを救う唯一のものになり、つながる証となるかもしれません。
●参考資料
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●撮影機材
Nikon Z6