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終戦記念日

戦後80年を目前に控えた2024年、現行すべての学年が改定された指導要領に基づく新課程へと置き換わった。新課程では、国語総合や現代文、古典という科目ではなく、言語文化、現代の国語、文学国語、論理国語といったように、教材の種別を軸に新課程が組まれている。次年度文学国語を担当する立場として教科書選定をしていた折、東京書籍に「父と暮らせば」が掲載されていることを知り、少し心が躍った。

「父と暮らせば」といえば、井上ひさしによる代表的な戯曲作品である。広島を舞台に、原爆を生き延びた福吉美津江と、原爆で亡くなった父竹造とのユーモラスで心温まるやり取りを中心に進む物語で、こまつ座により1994年に初演されて以降、何度となく上演されてきた。宮沢りえ主演で映画化もされた。竹造が幽霊なのか、それとも美津江の心が作り出した幻影なのか、意外にも論者によって分かれるところではあったが、いずれにしても、生き残ってしまった者(美津江)がその罪の意識をどう克服していくか、という点深く考えさせられる内容である。生徒にも常々読ませたいと思っていた作品だ。

戦争を語ることのできる世代は、徐々に少なくなってきている。沖縄や広島は修学旅行先として依然人気だが、戦争について直接当事者に話を聞く、という機会は、もうかなり貴重なものであると言わざるを得ない(最近はどの旅行会社もこの点を強調する)。
だからこそ国語の教員としては、直接経験していないことを間接的に受け取る手段として、文学作品にアクセスできるような人間になってほしいという思いがある。そんな矢先に東京書籍営業のスミさん(とてつもなく好感の持てる勉強家の女性、営業嫌いの自分が唯一心を許せる稀有な存在である)に文学国語の教科書目次を見せてもらい、思わず声が出てしまったのだ。「すごい!!父と暮らせばが掲載されているんですね!!これはうれしい!!」、職員室でスミさんと二人、けたたましく盛り上がった。

戦争というものの一面を垣間見るその入り口として、「父と暮らせば」はものすごく適していると思う。読みやすく、理解しやすいうえに、深く考えさせられる問題をいくつも内包しているからだ。というのも、単に生き残った者が前向きに人生を歩み始める、といったような心温まるエピソードとして消費されてしまうこと、あるいは原爆投下というその一点にのみ悲惨さを集約させてしまうことには留意が必要だからだ(この点に潜む暴力性について、中谷いずみ著『時間に抗う物語 文学・記憶・フェミニズム』終章を参照されたい)。表面的な読みではたどり着けないような深層を抱え込んでいる、と言い換えてもいいかもしれない。幸いなことに、一定数論考も積み上がっている作品である。生徒がこの戯曲を読み、どのようなことを考えるのか、いまからすでに楽しみでならない。

ところで。最近読み終えた小説も戦争をテーマにした作品だった。豊永浩平『月ぬ走いや、馬ぬ走い(ちちぬはいや、うんまぬはい)』、第67回群像新人文学賞を受賞した作品だ。作者は21歳、無論戦争を直接経験していない世代。沖縄を舞台に、沖縄戦から現代まで、時空を超えた様々な主体が断片的に語りを紡いでいく構成をとる。この集合的な語りによって、土地や人々が負った大小さまざまな傷痕が浮き彫りにされていくとともに、現在という地点がその地続きであるということを深く思い知らされる。
様々な語り手を導入している分、一人ひとりの個性を際立たせるためか、全体的にわざとらしさを感じる所が多々あって(特に現代の語り)途中何度か挫折しかけたが、ときどき切実な語り手が混ざっていて息をのんだ。4人目の語り手、沖縄にて出撃命令を待っていた特攻隊の島尻大尉は、敗戦を知らされたあともなお、部下たちに自死を期待される。

声を殺し、しかし迫る口吻で彼は責めたてた。なにをいまさら悠長なことを、私は、あなたが殉死するおつもりだからとレコードを冥土の土産にさしあげようとしているのです、しかし、いうにこと欠いてまだ時間はあるなどと……この無茶な戦争を始めたのは、他でもなくあなたたちの世代じゃないですか、いったい何人死んだと思っているんです?そうでなくて、こんな馬鹿げたながさの戦争の帳尻が合いますか、あなたがた土官には、戦争のあいだ、それだけの特権が与えられていたのです、もちろん、朗らかな人柄の島尻大尉にはお気の毒ですが、しかし戦争というのはそういうものでしょう、ひとつの例外も洩らすべきでないと、そう教えたのは他でもなくあなたがたなのですよ……あなたがたが厭でも、戦勝国は日本にそれを要求してきますよ、アメリカがそうですし、連合国がそうします、内地の臣民も、満州の民も、沖縄や、北海道の民もほんとうは死ぬひつようなどなかったのです、死ぬひつようがあるとすれば、こんどの戦争責任を引き受けるべき軍閥の人間たちではないですか。

『月ぬ走いや、馬ぬ走い』

島尾敏雄「出孤島記」を読んだ際にも感じたが、戦時と戦後が、歴史の教科書のように時間線では区切れないものであるということを思い知らされる。本書の戦略かもしれない。多声的な語りは、時間や空間が実際のところ、単線的に区切れない性質のものであるということを示唆しているように思う。
6人目の戦争花嫁の語りも印象深い。腹違いの兄へ向けた書簡体の語りが明らかにするのは、日本/敵国という単線の分割法には収束しない暴力の記憶だ。

かつての沖縄では、女性の参政権が本土よりもさきがけて付与されたという誇りと、日常的に横行するアメリカアからの性暴力という屈辱が合わさった状況下のことで、国際結婚はよけいに歓迎されなかったのです。兄にはわたしのしたことは婦人の地位向上の妨げだといわれ、母からは、お前はアメリカアぬ売女をわたしらぬ一族んかいだすつもりでいるのか!?とはげしく責め立てられました。

『月ぬ走いや、馬ぬ走い』

なにをするにも「「沖縄の女が……」という枕詞」が付いて回ったと語る彼女は、「父と暮らせば」の美津江同様、交差性(インターセクショナリティ)の暴力に晒された存在である。そんな彼女が、夜ごと死んでいった者たちの声に悩まされる義足の夫を、娘とともにケアする存在であることも興味深い。もはや暴力や傷は、加害者と被害者という単純な構図には収まりきらない複雑さを帯びている。

物語はお盆の終りと並行してその語りを終息させる。自分が本書を読み終えたのもちょうど8月16日だった。ニュースは終戦記念日よりも、台風7号を大々的に報じている。これまでの教え子や、自分のクラスの生徒たちがこの本を手に取ったとしたら。午後2時、雨脚が徐々に強まってきた。彼らはいったいどんな思いで本書の声に耳を澄ませるのか。そんなことを想像しながら読み終えた次第である。

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