なぜ「うまずして何が女性でしょうか」発言が問題なのか?
これは個別の失言をどうこうしようという話ではなく、何をどうすると差別的な発言になるのか、という分析のための原稿である。その上で、明らかに「社会的責任の大きな立場」にある上川外相の事例を検討してみたい。報道によれば以下のような経緯である。
1)メタファー(隠喩)の問題
これに対して、「発言の切り取りで煽情的な報道を行なっている。発言は問題視すべきものではない」という議論がある。
確かに、ここでの「うむ」が(自民党が推薦する知事候補をその会場の女性たちで応援することによって)「知事にする」ことを示しているのは確実である。しかし同時に、「女性が子どもを産む」ことと、「知事をうむ」ことが隠喩(メタファー)の関係にあることも事実である。
隠喩というのは、二つの領域に別々に存在している「関係性」の類似で状況を説明する修辞術(レトリック)である。例えば「ライオンは百獣の王である」という隠喩は、ライオンの競争者のない強さ(実際の自然界では必ずしもそうではないが)や威厳を、人間界の「王」という職位に比している。つまり「凡百の人間と王」という関係性と、「様々な動物種とライオン」という関係性に準えているのである。
これらの比喩は、高い相互参照性を持つことが一般的である。つまり、「百獣の王」という言い方が世に広まれば、高貴な人々はその隠喩の効果に肖ろうとライオンの表象を家紋や屋敷の飾りなどに採用するであろう。
この特徴から、隠喩においては、「その単語ないし表現をどこに置くか」ということが重要になる。笹の葉が焼き魚の下にあしらわれているだけでは、それはメッセージを発しないが、その笹の葉をスッと水盤に浮かべると、それは船の隠喩になる。そして、笹舟の表象を得た水盤は大きな池や海の隠喩になるだろう。
同様に「うむ」という単語だけでは必ずしも発生しない(あるいは「静岡県民がうみだそう」というような性と関連付けない命題では発生しない)文脈が、「女性がうまずして」と結合するだけで生まれるのである。
もちろん、これはあくまで修辞のレベルの問題なので、それがどれだけ個々人の心に刺さるかというのは、それこそ千差万別であるが、「生む性」であることの強要に息苦しさを感じてきた人には、それなりに刺さる表現ではあるだろう。
2)論理構造の問題
次に、「うまずして何が女性でしょうか」という反語表現の問題である。
一般に、反語的にすると主張は強まると考えられているが、これは何故だろうか?
つまり命題A「産むならば女性である」というところを命題B「生まなければ女性ではない」と言い換えることで、修辞としてどのような効果が発生しているのであろうか?
産むならば女性であるを論理記号で表すと「産む⊃女性」となる。
ここで⊃は、左辺は必ず右辺に含まれるというような記号である。
ここで否定記号¬を導入すると「¬産む⊃¬女性」と書くことができ、これは「うまなければ女性ではない」と読み下すことができる。
ところで、この二つの命題(命題A「産む⊃女性」と命題B「¬産む⊃¬女性」)は同じ意味ではない。
このことは、ヴェン図を書いてみてもよくわかるだろう。
「生むならば女性である」は上の図、「生まなければ女性ではない」は下の図である(赤く塗ってある部分が”命題上の真実”ということになる)。
つまり、命題Aの直接的な意味は「生むなら女性だが、女性だからといって生むとは限らない。男性であれば生まない(生む男性は白、つまり空集合である)」だが、命題Bは「女性であれば必ず生む。生まない女性はいない」(生まない女性が白、つまり空集合である)ということになる。
命題Aならば生まない女性がいることも許容しているが、命題Bは確実に、生むことが女性の条件だとみなしているわけである。
例えば「生む性である女性が、新しい政治を生み出していこうではありませんか」のような記述であれば(この命題を採用した場合は、排除の対象になるのは上の図の白いところ、つまり「生む(生みたい?)男性」であるわけで)さほど大きな反発は出なかったかもしれない。
もちろんこれは現段階での話であり、長期的には「生みたい男性の排除」は社会的問題であると認識される時代が来ないとも限らない。
いずれにしても、次節で論じるように「属性で語る」ことが差別を誘発するのであり、特に政治的文脈でそれをすることの含意は、常に批判的に検証される必要があるだろう。
ところで、「政治家の講演の聞き手は、流行歌の歌詞を聴く人と一緒で、そんな論理学的な思考を巡らせながら聴いているわけではない。反語的表現が内容の強調になるといったことを論理演算しながら聴く聴衆はいたとしても極めて少数派なのであり、内容を深く分析する価値はない」という批判はありうるかと思う。
一方で、我々の社会において「論争」というのが成り立つ以上、我々は記号論理学で示されるような(鉤括弧付きではあるが)「普遍的な論理構造」というものを前提としており、また多少は理解しており、政治的演説というのはそういった構造に沿っているべきもので聴衆も無意識のうちにそういう演算をしているのだ、という考え方もありうる。
この部分の議論は長くなるので、必要であれば別稿に振るとして、結論から言えば、確かに我々の脳は抽象的な論理思考は苦手であり、皆さんの手にあるスマホの数十分の一の速度ですら、論理演算はできない(一方で、前項で論じたような比喩的なものは肉体的な経験を前提としており、最新の人工知能ですら「理解できているふりをする」のがせいぜいである)。
このことは論理演算が全くできないことを意味せず、またおそらく、この論理演算は大半の人にとって経験や記憶と関連づけられた環境の中に埋め込まれている。
これが「生まなければ女性ではない」が含意するところの意味を、女性ジェンダーの押し付けを感じる立場の人たちが感じやすく、そうでない人にはあまり感じないことの意味ではないか。
3)排除の構造
さて、なぜ政治家がこういった「排除的な演説」をしたがるかということが、実は最大の問題である。
政治家はしばしば、一体感を演出することによって支持を広げようとする。しかし、取り立てて共通項のない(そして、現代社会ではイデオロギーで一体感を作り出そうとすると嫌われる)聴衆に対して、最も簡便で危険な方法は何かを排除することである。
「排除のポリティクス」では仮想の「コミュニティ」のメンバーが他者を共通の敵として名指すことは、コミュニティの一体感を高めるわけである。「外国人」や「非国民」といったフレーズが政治で使われがちなのはこうした原理に基づいている。
今回の上川大臣のセリフについて言えば、これはさほど意図的なものではなかっただろう。
例えば「生む性である我々が、団結して新しい知事を生み出していきましょう」という言い方であったとすれば、おそらく自民党を支持する保守的な女性たちのアイディンティティを高く評価する形になることによって、地域住民を盛り上げる形になる一方で、自民党や家父長制に批判的な人々もそこまで批判的になることもなかったかもしれない。
しかし、そこで反語表現を使ったことによって「生まない女性」を名指してみせたことによって、表現は一気に「排除のポリティクス」に近づいている。
この点について、上川大臣がどこまで意識的だったかは分からないが、おそらくそこまでの意図はなかったのではないかという印象は受ける。一方で、わざわざ反語的な表現を採用したことが、偶然というわけでもないだろう。
先に述べたように、聴衆の側も無意識に「普遍的な論理学」を当てはめて考えるのと同様に、ヴェテラン政治家も、さほど意図せずに「排除のポリティクス」を利用するのであり、上川大臣も例外ではなかった、ということだろう。
こういった問題に関しては、発言者個人の責任を厳しく追求するということが必ずしも効果的ではないかもしれない。
それよりも、誰かを排除することでできる「仮想のコミュニティ」意識があり、政治というものはそれを利用しがちだということに、聴衆も政治家自身も自覚的になり、そういった手段を政治的文脈で用いないようにすることを、社会的合意にすることが必要であろう。
ただ、その後の報道によれば上川大臣は「発言を取り消した」とのことだが、この(国会答弁でもない)発言を取り消す、ということの意味はよく分からない。
取り消すのではなく、何が問題で、今後は(上川氏個人だけではなく、政治に携わる人々が)どこに気をつけるべきなのかということを、いろいろ議論する機会にすることが重要なのではないだろうか。