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08 エピローグ~がんばれ日本代表~

 7月7日のお店のオープンに向けて、とても忙しい日々を送っていたため、久々の更新。店の方はオープンして2週間ほど、ようやくこの仕事のリズムがつかめてきたところだ。と当時に、徐々に自分が「先生」の顔の他に、「店長」や「近所の本屋のおっちゃん」の顔を持ち始めたと実感する。

 いつまでも、「元教師」を引きずったり振りかざしたりしているわけにいかない。そんなわけでこのマガジンももうタイトル的に賞味期限で、早く閉じなければいけないなと思っていたところ、今日がそれを閉じるにふさわしい日だと直感的にPCを開く。日本や世界にとって、歴史的な本日2021年7月23日。アスリートに対しては、尊敬や応援の思いをもっているが、記事の副題はアスリートに向けて発した言葉ではない。

 今回の東京五輪開幕までの一連の不祥事、組織委員会や政府の対応、それに対する世の中の怒りや落胆、などなどを見るにつけ、「教育の敗北だなあ」と感じたこと(大抵残念な事件が起きた時に私はそう思うのだけど)がたくさんある。なぜ首相が用意された文章を読んでいると「いらっ」とするのか。盗作疑惑があったり差別発言があったり、辞任解任に追い込まれるような人を選んでいる組織委員会の方に足りないものは何か。なぜTwitterでは「組織委員会や政府がダメだから日本がダメな国に見える」的なツイートが多いのか。それらに共通することは「当事者意識の欠如」ではないかと思う。自分が組織のリーダーで、自分の存在が、自分の胸の内から出る熱い言葉が、組織を強く牽引していくはずだという当事者意識。この人選が五輪憲章に則って平和の祭典にふさわしいものを作っている過程なのだという当事者意識。そして、私自身も時には日本を背負って存在しているのだという当事者意識。そういうものがない。これまでの教育は、そういうものをこの国に育んでこなかった、と感じたのだ。

 特に最後の、「私自身も時には日本を背負って存在している」という点について詳しく述べたい。私は学生時代、ドイツで1年間日本語教師のインターンとして働いていた。私の住んでいた街には、日本人は私しかいなかった。赴任して間もない時期は、バスに乗っているだけで好奇の目にさらされた。その環境で私は、誰にも教わっていないにも関わらず、肌感覚で「この街では自分が日本を代表している」と直感したのだ。私の振る舞いが日本のイメージを決めてしまう。バスで席を譲らなかったら「日本人は不親切」だと思われる、買い物していて安く済ませると「日本人はケチ」だと思われる。そう思って気の休まらない生活をしていた。自意識過剰、考えすぎだと思われるかもしれない。しかし、あなたの住む街に、外国出身の方はいないだろうか。街で見かけるその方に、あなたはどんな目を向けているだろうか。「やっぱり〇〇人は…」という思いをもたず、つまり何の先入観もなくその人個人を見ているだろうか。「何の先入観もなく」なんていうものの見方をすること自体が、ものすごくテクニックのいることだったりする。大体、日本国内でだって「〇〇県民は…」なんて話が出るくらいだ。私が住む地域では、車の運転が荒いことを「ナゴヤ走り」という。安全運転を心がけている名古屋市民からしたら失礼な表現だなといつも思うが、それだけ現代日本では簡単に先入観をもたされてしまうし、人間とは元来先入観をもちやすい生き物なのかもしれない。

 日本国内にいても、この「家を一歩出たら自分は日本代表」というくらいの当事者意識をもった方がよいと思う。先ほどのドイツの話の逆で、日本にいる外国出身の方からすると、この街が「日本」なのだ。今日街ですれちがったあなたの振る舞いが、「日本」なのだ。今日のあなたの行動が、明日の日本を作ります。ダサい標語に聞こえるが、事実である。

 より教育的な課題に話を寄せると、現在の公立学校の教育で「当事者意識」を育てるのは非常に難しい。というか、社会に対して当事者意識をもった人間を育てよう、なんていう気構えをもった現場や先生にほぼ出会ったことがない。子どもが「社会における当事者意識」をもつためには「学校や家庭における当事者意識」を持てなければいけない。しかし、自分が学校における当事者であるという意識は、先生が決めたルールの中やみんなが同じ勉強をするように設計された画一的な空間では持ちようがないものだ。学校ではいつも「大人が全て決めてしまった方が子どもも大人も楽できる」のである。そして、人間は色々と与えられすぎると、自分で考えることをやめる。「何でも先生の言う通りにするのがよい子」だと教えられた子どもに、主体的な思考は不可能。自分がそこに自我だったり主体性だったりをもって参画している意識はない。小学校に勤めていた頃、折に触れて「次世代を創っていく皆さんに大人は期待している」と伝えていたが、半数くらいの子が迷惑そうな顔をするのだ。次世代を創る、世界を創る、って何だよ。そんなことできるわけねーよ。だって今「創られた世界の中で従順に生きてろ」って大人は言うじゃねーかよ。自分の行動でこの世界が変わるわけがないじゃん。目の中にそんな諦観の色がにじむ。自分で諦めたのに、彼らは大人になって何か不利益が発生すると「国が悪い」「自治体が悪い」「会社が悪い」と他責し始める。そうするしかないのだ。だって「自分が当事者として参画して枠組みを作っていい」という発想を奪われているのだから。それを奪った罪に、教育はかなり大きめに加担していると思う。

 今日までの東京五輪の紆余曲折で顕現した、当事者意識のない「自分じゃない誰かをあてにしている感」「自分じゃない誰かの責任にしたい欲」こそが昭和的教育の負の遺産だ。私が教育を通して次世代に育んでいきたいものは、この真逆の姿なんだろうと思う。せっかくの平和の祭典なのに、暗いニュースが続いて本当に嫌な気分だったけど、その泥の中に目を凝らしてみて、自身の教育ビジョンの明確化につなげることができたのは、私自身の教育者としての当事者意識が多少なりとも機能していたからだと捉えている。公立学校教員を辞めて、オープン間もないうちの店に塾生として来てくれた子どもたちは、まだわずかに17名。この子たちから「日本代表」に育てたい。自分の心の持ち方一つで、あなたは新しい世界を創ることに参画できるよ。それって大変なこともあるけど、すごく素敵なことだよって、関われる全ての時間を通して伝えたい。

 私は明日からも、朝コーヒーを買いに寄るいつものコンビニの非日本語話者の店員さんに、笑顔と会釈を忘れずに関わるのだ。だって、私も「日本代表」だから。皆さんと同じように。


今後のお店での教育活動の進捗については、別タイトルのマガジンを作成しようと思っています。この稚拙なマガジンを、最後まで目を通していただき、ありがとうございました。

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