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ハーバード公認!?「死体盗掘」クラブ〜医師たちの飽くなき探究心〜
1999年7月の暑い日、アメリカマサチューセッツ州ケンブリッジ市ハーバード大学構内にあるホールデンチャペル(Holden Chapel)では改装工事が行われていた。このチャペルはハーバード大学の建築物の中ではマサチューセッツホール(1720年)に次ぐ2番目に古い建物で、1744年に礼拝所として建立された経緯がある。作業員の一人が、チャペル地下の壁沿いに人骨がうまっているのに気づいた。古い石壁周辺をさらに探ってゆくと、さらにおびただしい数の人骨が出土してきた。捜索された範囲では、少なくとも11人分以上の人骨が確認されたが、骨は全てかなり古いもので、多くは切断され、中には金具で組み合わされているものもあった。
チャペルはかつて
さて、この観光客で賑わう平和な大学のキャンパス内になぜおびただしい数の人骨が埋まっていたのであろうか。かつて、ここはハーバード大学医学部の解剖学教室であった。ハーバード大学医学部は1906年にボストン市ロングウッドエリアの広大なキャンパスに最終的に設置され、現在はこのケンブリッジ市にはないが、黎明期にはここハーバードヤードに1782年に設立された。当時は少数の学生と3人の教員しかおらず、隣接するハーバードホールの地下で講義をし、このホールデンチャペルは解剖学教室として使用されていたのである。教員の1人が解剖・外科教授のジョン・ウォーレン(John Warren)であった。
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アメリカ医学の巨人、ウォーレンファミリー
ウォーレンファミリーはアメリカで最も著名な医学者の家系で、ジョン・ウォーレンの兄はアメリカ建国の父で医師、独立戦争バンカーヒルの戦いで戦死したジョセフ・ウォーレン(Joseph Warren)である。ジョン・ウォーレンの息子はジョン・コリンズ・ウォーレン(John Collins Warren)で、やはりハーバード大医学部解剖教授をつとめ、ハーバード大学の最大の関連病院であるマサチューセッツ総合病院を設立、そこではエーテルによる初の全身麻酔の外科手術を担当した。2023年現在でもマサチューセッツ総合病院には子孫である2人のウォーレン医師が勤務している。
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ジョン・ウォーレン教授はハーバード大医学部の創設に関わっただけでなく、権威ある医学雑誌のニューイングランドジャーナルオブメディスンも創刊しているアメリカ医学の巨人である。彼は、医学部がボストン市に移転するまでこのチェペルで19年間、解剖学を教えていた。
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解剖学を学ぶ、と言うこと
医学部の基礎教育では、人体解剖実習が必修科目として課される。いうまでもなく、解剖学は医師を志す者にとって習得すべき基礎中の基礎であるとため、医学生になって最初に直面する専門科目であるという以上に、人のご遺体に直接触れるという日常から大きく逸脱した活動を通して、医師になる心構えを直接生じさせる学問でもある。筆者も医学生としてご遺体を解剖させていただいたが、人体解剖をしたことがあるかないかが、医師としてのトレーニングを受けたことがあるかないかの分岐点であったと思う。
解剖学は、教科書を読む座学だけでは到底身につかない。実際に触れて切ってみることで、人体への理解が深まると同時に、処置や手術に必要な実際の触感、色、なども身に付けることができる。外科系の診療科を目指す者だけでなく、人体に何らかの処置をするであろうどの専門科を目指す医師にとっても、重要な習得分野である。それは、如何に映像技術やメディアが進歩した今と昔でも大きく変わることはない。優れた医師の養成や医学研究には、ご遺体が必須なわけだが、洋の東西を問わず、人体解剖はかつて規制されていた。TBSのドラマ「JIN」では、江戸幕府の規制で腑分けができる遺体数が限られており、苦悩する若い医師の姿が描かれている。
アメリカ、イギリスでの遺体解剖への規制
18世紀当時、アメリカのマサチューセッツ州でも、1647年以降、解剖するのが許されていたのは4年に1体に過ぎず、医師の教育・研究には「圧倒的に」足りなかった。ハーバードは優遇措置を勝ち取ってはいたが、それでも許されたのは処刑された犯罪者の1年に2体程度の解剖であった(17世紀終わり頃より、処刑が急激に減っていたため)。当時、人体解剖をしたことのない経験の浅い医師が巷に増えるにつれ、解剖という実学の重要性が認識されるに至り、遺体への需要が高まっていた時期でもあった。18世紀半ば、フランスのパリはおそらく当時解剖を学ぶには最適の場所であったであろう。講義で学ぶだけでなく、実際に遺体を解剖することで学ぶ方法が定着しており、規制もそれに準じて寛容であった。イギリスの解剖医ジョン・ハンター(John Hunter)の兄、ウイリアム・ハンター(William Hunter)は解剖教室を主催していたが、1746年秋にロンドンで講義と並行して実地解剖ができる「パリ式講義」の広告を出したことはよく知られている。しかし、当時のイギリスでも規制は似たり寄ったりであったため当時の米英の医師、医学教育者達は、この問題を「墓から遺体を盗む」ことで解決していた。遺体は財産とみなされておらず、他の装飾品などを盗まなければ、墓泥棒自体は軽犯罪で済まされるという事情もあった(だたし、盗んだ遺体を解剖すること自体は違法であったので、解剖の際は遺体の由来は慣習的に不問としていた)(5)。
厳しい規制の産んだ盗掘
イギリス解剖医のジョン・ハンターの逸話でよく知られるように、18世紀のロンドンでは、解剖の教育と研究に用いるための遺体の売買・盗掘が盛んに行われていた。関係者の間で、盗掘人は「復活屋(resurrection men)」と呼ばれていた。チャールズ・ディケンズの「二都物語」にも、墓から遺体を盗掘することを隠れた副業にしているクランチャー氏の話が出てくる。イギリスの植民地であったアメリカにもこの悪習は輸入され、ハーバード大学医学部も、その例に漏れず「盗掘」に手を染め、黒歴史の一部となった。
ハーバード盗掘クラブ?遂に発足
1770年ごろ、後に正式にハーバード大学医学部を創設するジョン・ウォーレンは、スパンカーズ(Spunkers-勇者達?とでも訳すか)なるクラブを創設した。医学部創設前のクラブの活動はハーバード大学での医学の勉強ということであり、骨標本を使った勉強や動物の解剖なども行なっているとされていたが、その主要な目的はズバリ、盗掘によって解剖用の遺体を調達すること。盗掘には少なくとも2人の墓掘りと馬車で運搬するための御者が1人必要とされており、かなりの作業であったため、組織的な対応が必要であった事情もある。ハーバードはこの団体の存在を認めてはおらず、メンバーはこのクラブのことを書き下ろすことは固く禁じられていた (6)。
盗掘クラブの手口
1796年、ハーバードの医学生だったジョン・コリンズ・ウォーレンは同僚の医学生達とボストン北墓地(North Burying Ground)に向かった。盗掘には、なるべく最近の埋葬が適している。新聞の訃報欄にいつも目を通し、身寄りのない亡くなった人がいる情報を得て直ちに出かけていったのである。夜中、ランタンの明かりを頼りに、埋められた棺桶の頭部を目指して、音のたたない木製のシャベルで掘ってゆく。掘削を隠蔽するため、掘った土は周囲に散らばらないように大きなキャンバス布地を拡げた上に乗せてゆく。頭の部分のフタを壊し、クビか脇の下に金属製のフックをひっかけ、それに繋がったロープで引っ張り出す。遺体を袋に詰め、埋葬品や服を丁寧に戻し、現場の土を戻し丁寧に復旧させると、袋詰めの遺体を馬車に乗せると一目散に医学部に戻っていった。翌朝、噂を耳にした父親であり解剖教授のジョン・ウォーレンは「最初は息子が噂の主人公となっていることに不快な様子であったが、状態の非常に良い解剖用遺体を目にすると、見るからに満足気な様子になった」とジョン・コリンズ・ウォーレンは日記に記している。かく言うジョン・ウォーレン教授自身も盗掘を行なっていたのであるから。クラブメンバーは、彼らの仕事ぶりに誇りを持っていたという。1775年のジョン・ウォーレンは私信で、「もし盗掘が注意深く見事に行われてなかった場合、それはスパンカーズの仕業ではない」と述懐している。彼はその後も遺体の確保に尽力し、葬儀屋に賄賂を渡したり、また、クラブのメンバーには、あの建国の父ポールリビアの息子ジョン・リビア(John Revere)がおり、彼の伝手を通じて遺体を確保の人材をリクルートしていたと言われる。
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盗掘クラブの隆盛
このクラブの活動は1775年に始まったアメリカ独立戦争中に最盛期を迎える(ボストンはアメリカ独立戦争が始まった場所でもある)。スパンカーズのメンバーは独立戦争中に双方の犠牲者からなりふり構わず解剖用遺体を回収していた。アメリカの総司令官にして後の初代大統領ジョージ・ワシントンはこれを知り「忌まわしい犯罪だ」と言ったと言われている (9)。
盗掘の社会的背景とその推移
キリスト教徒は復活の日に備えて遺体を保持する意味もあり、丁寧に土葬にしていたため、盗掘は必要悪とみなされていたとはいえ、市民の憤りを買ったことはいうまでもない。12-13世紀、ヨーロッパでは医学校の設立が相次ぎ、解剖が行われるようになると、復活の観点から1231年にはローマ皇帝フレデリック2世によって解剖は規制され、1299年にはローマ法王ボニフェース8世も懸念を表明したが、実学だけでなく、芸術面からも解剖に対する要求は収まることはなく、結局解剖は1283-1365年までにはヨーロッパ諸国で合法化されていっていた。しかし、英米はこの動きから取り残されていた。1800年に入ると、ニューイングランド地方では医学部が増加し、ボストンで盗掘を目指して学生が出張するようなケースも増えてきたため、盗掘の需要はますます増加傾向にあった。
市民の反抗
市民も黙っていたわけではない。1765-1884年までの間、アメリカの医学部に対して少なくとも25の盗掘遺体の解剖に対する抗議活動が行われている。1815年にはマサチューセッツ州では死者の墓を保護するための法規(Act to Protect the Sepulchers of the Dead)が整えられ、盗掘は違法となり、墓地のパトロールが強化された。このため、ハーバードでは未だ年間600-700の盗掘が行われていたニューヨーク州に賄賂を渡し、解剖用の遺体を「輸入」する羽目になった(ニューヨークでは1854年に違法となった)。しかし、これでは、医師の養成、研究に遺体はまだ全く足りない。事態を憂慮したマサチューセッツ州医学会の働きかけもあり、1831年には身寄りのない貧困者、収監者の解剖を合法化する解剖法(Anatomy Act)が可決された。ただ、これでも焼石に水の状態で、やはり解剖用遺体は不足しており、盗掘がなくなることはなかった。巡回の警察官に賄賂を渡したり、酒を与えて酔わせたりすることで盗掘は続けられた (10)。
ハーバードを舞台にした盗掘は続く
1842年、ハーバード大はエフレイム・リトルフィールド氏(Ephraim Littlefield)を医学部の用務員として雇用した。この人物はのちにパークマン医師謀殺事件でキーマンとなるが、それはさておき、彼の表向きの仕事は建物の管理などであったが、裏の主要な業務はどこからか(「復活屋」とコネをつけて)解剖用遺体を調達してきては25ドル(2023現在の10万円ほど)で医学生や教員に売ることにあった。彼は医師達が解剖を終えた後の片付けも行なっており、遺体をホールデンチャペルの地下に遺棄していたのは彼だと考えられている (11)。
解剖の現在と今後
スパンカーズはその記録が禁じられていたこともあり、いつごろ消滅したのかは正確にはわかっていない。科学が急速に進歩しだしたが、まだ保守的な宗教観が支配的であった19世紀は、解剖遺体の確保が容易ではなかったことは想像に難くない。アメリカでの盗掘自体は、宗教観の変化によって献体の制度などが整ってくる20世紀初頭まではなくなることはなかった。2023年現在、アメリカでは年間2万の献体があり、医学実習に使われている。Ghazanfarらによる最近の調査では、対象となった医師842人のうち、解剖学を学習する効果的な方法として、遺体を使った解剖が最も有効だと考えていたのはたったの27.9%であった (12)。今後、医療画像技術やバーチャルリアリティの進歩によって、解剖の学習はどのように変化してゆくのであろうか。