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Егор и Опизденевшие:狂騒と静寂を超えて、意識の“冬”を鳴らすサイケデリック・ロシアンロック

 初めて「Егор и Опизденевшие(エゴール・イ・オピズヂニェフシエ)」を耳にしたとき、多くのリスナーは「さて、これはいったい何事だろうか」と戸惑ったはずだ。グラージダンスカヤ・オボローナ(以下GO)という、シベリア・パンク/ローファイ・シーンにおいて既にカリスマとして君臨していたエゴール・レトフが、なぜこんなにも不可思議な音楽へと手を伸ばしたのか。通常のロックバンド編成から外れ、あたかも意識の深部を垂れ流すようなサウンドは、正統派パンクの鋭利な刃先というよりは、得体の知れないサイケデリック泥沼にズブズブと沈んでいく感覚を与える。

 “Опизденевшие”という単語が放つ、どこか露悪的でショックを伴う響き──直訳すれば「呆然とした」「すっかりアタマがいかれちまった」程度の語感だが、このニュアンスは作品自体の音像にも色濃く焼き付いている。GOの荒々しい反体制精神はそのままに、より個人的で内向的、ある種の“私的実験室”へ潜り込んだような曲作り。カセット録音の粗雑さがむしろ神秘性を助長し、何重にも歪んだギターと声のレイヤーが、ロシアの灰色の空気を張り詰めた透明な針のように突き刺してくる。エゴール・レトフが抱えていた詩的狂騒はここで一段と深化し、シベリアの厳しい冬やソビエト/ポスト・ソビエト期の虚無感をまるごと風呂敷に包んでぶちまけたかのようなサウンドを形成する。それは抗いようのない“冬”の感覚——だが、聞き手は寒々しさだけでなく、どこか不思議な温度を感じ取るはずだ。凍てついた銀世界が時おり奇妙に輝くように、絶望的であるがゆえの透明な美しさが、粗削りなフィードバックの奥底から微かに立ちのぼってくるのだ。

GOの作品群に比べれば、Егор и Опизденевшиеは確かに手に入りにくいし、結成も活動もその時々の気まぐれのように見える。しかし、それこそがこのプロジェクトの真骨頂ではないだろうか。時代や検閲すら凌駕する想像力が、ロシアの辺境とされるシベリアの片隅から突如湧き上がり、そのままいびつな形でリスナーの耳と心に突き刺さる。歴史的文脈や政治的アジテーションを越え、ただひたすら自分の精神の内側をかきむしった先にある“凍結されたカオス”。そこに垣間見えるのは、反骨を通り越して浮かび上がる、意識と無意識が同居する荒野の風景だ。まさしく、エゴール・レトフという“電波塔”を経由してしか受信できない、ロシアンロックの異端児的“冬のサイケデリア”なのである。




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