16.「知る」という「幸せ」
神は「幸せ」を知らない。
だから僕らを生み出した。
神はいつも「幸せ」だから、「幸せじゃない」状態を知らないと「本当の幸せ」を体験できないと考えた。
そこで神は神自身を分離させ、数えることが不可能なほどの数の分身を生み出し、神の記憶を消した僕らに様々な経験をさせているという。
幸せは、幸せでない状態を知ることで知ることができる。
神は、分身である僕らを通じて幸せじゃない状態を知り、その相対として幸せとは何かを知る。
「幸せとはどういうものなのか」を神は、僕らを通じて知るのである。
ここまで書いたことは僕が以前読んだ本を要約したもの。
その真意を確かめることはできないけれど、おそらくそうなのではないかと思う。
であるならば、僕らは幸せじゃない状態を知り、幸せの状態を知るという役目を担っているといっていい。
だから、僕らの欲求の中に「知りたい」という欲求が備わっている。
それも、かなり大きな比重で。
「悟り」とは「認識する」こと。
自分が何者であり、自分とはどういう存在であるかを知ることである。
そして「悟り」という認識を得ることによって、「幸せ」とは何かを知るのである。
つまり、「悟り」とは「幸せとは何か」を知ることである。
僕らは神より幸せなのかもしれない。
神は僕らを通じて間接的に「幸せとは何か」を知る。
僕らは、実際に経験することで体感として、心を震わせることで幸せを知ることができる。
生きるとは何かを、身体を使って、思考を使って、感覚と感情をフルに活用して知ることができる。
実際に自分自身の身を削って幸せの意味を知るのである。
神は僕らを神の知的好奇心の最先端に立たせている。
だから、僕らは生身の身体を使って幸せを知ることになる。
「知る」ことは「幸せ」である。
僕らの知好奇心は止むことがない。
絶えず何かを知ろうとして生きている。
そして、その知的好奇心の奥の奥で常に「幸せ」を探している。
僕らは誰もが幸せになりたいと思って生きている。
どうすれば、幸せになれるのか、どうすれば幸せを感じられるようになるか絶え間なく探求している。
そういった試行錯誤の探求の先で、少しでも幸せを感じられるようになると嬉しいという感情が湧き上がるように創られている。
神は僕らがどんな体験をして、どんな思いを抱くかで幸せを知ることができるように創った。
僕らが「嬉しいと感じることは幸せ」という設定で僕らをこの世界に送り出した。
だから、僕らは日々、嬉しいと感じることを探して生きている。
「幸せ」とは「嬉しいという感情」を知ること。
「嬉しいという感情」は状況によって変化する。
辛い体験も、そのお陰で今幸せになることができたと知ることができたとき「幸せ」に変化する。
「幸せ」のカタチは決してひとつではない。
僕らの中の「喜び」のセンサーが反応するのであれば、それは「幸せ」に変わる。
「幸せ」のカタチは千差万別だけれど、「喜び」とい感情は誰もが同じように持っている。
だから「幸せ」とは「喜び」の感情を得ることでもある。
僕ら一人ひとりが、それぞれに「喜び」のセンサーをどう働かせることが出来るかが「幸せ」の定義となる。
「幸せ」とは「喜びのセンサーの働かせ方を知ること」と言ってもいい。
僕らの知的好奇心は、「私」を喜ばせることにあり、どうすれば「私」を「私」が喜ばすことができるかを知ることにある。
神は神自身を喜ばせるために、僕らを生み出した。
その神の分身である僕らの使命は、自分自身を喜ばせることにある。
つまり、「幸せ」とは自分自身を喜ばせる術を「知る」ことでもある。
僕らの知的好奇心は「喜び」にあり、「喜び」とは「幸せ」の第一の感情である。
「幸せ」とは何かを知ること。
それが幸せ。