episode14 私たちは4次元に存在している
「ヌーソロジーが面白い」というマガジンでは、ヌーソロジーという思想体系を創り上げた半田広宣さんの「2013:人類が神を見る日」と「2013:シリウス革命」という2冊の本を読み解きながら、私たちの意識(魂)の出自や私たちがこの世界に存在している理由を紐解いています。
今回は、「私たちは4次元に存在している」ということを書いていきます。
現在、私たちの常識として3次元+時間という3次元時空に存在しているとされています。しかし、この3次元+時間という考え方には、観察者(私たち)の視点が加わっていません。
では、この観察者(私たち)の視点とは、何次元に存在しているかというと4次元となります。
つまり、3次元という次元に、観察者である私たちの視点を次元に加えると、私たちは4次元に存在しているということになります。
では、私たちが4次元に存在しているとなった場合、「時間」はどこに存在するようになるかというと、「時間」は、この4次元の世界に含まれているということになります。
こういったことを「ヌーソロジー」の本である「2013:人類が神を見る日」と「2013:シリウス革命」を参考にしながら解説していきたいと思います。
観察者の視点を次元に加えると次元の見方が変わる
「2013:シリウス革命」の著者の半田広宣さんは、「物理学はその性質上、客観的な事物として宇宙を捉え、その構造を解明しようとする学問であるため、観測者自身である<わたし>の位置が組み込まれていない」といっています。
つまり、3次元+時間という3次元時空の概念には、観察者の位置、つまり、3次元時空を見つめている<わたし>の位置が除かれているということになります。
実際に、この世界の物質は縦横高さの3次元で出来ているし、私たちも3次元世界の住人です。しかし、3次元の立体を認識できているということは、その3次元を認識している私は4次元の視点も持っていることになります。
このことを詳しく説明していきます。
1次元を認識するためには3次元の視点がなければなりません。なぜかというと、<わたし>という存在が、ひとつの点で1次元の中に存在していたなら、<わたし>という存在が1次元の中に存在する限り自分の姿を見ることができないからです。
また、<わたし>の存在が点ではなく2次元である縦と横という線であったとしても自分の姿を見ることはできません。なぜかというと自分という存在が縦と横という平面にいる限り、自分の姿を見ることができないからです。
そこで、平面に存在している<わたし>を観察するには「高さ」と<あなた>が必要になります。なぜかというと、平面に存在している<わたし>は自分で自分の姿を見ることができないし、もし<わたし>が高さを身に付けたとしても、<あなた>がいないと自分の存在を認識して貰えないからです。
そこでもし、平面に存在している<わたし>が「高さ」という能力を身に付けることができたとすれば、<わたし>は平面に存在している<あなた>を見ることができることができるようになるでしょう。
しかし、高さを身に付けても<わたし>は<わたし>の姿を見ることができません。なぜかというと、<わたし>は3次元の世界に閉じ込められているからです。そこで、さらに平面に存在している<あなた>も高さという能力を身に付けることができたとき、<あなた>によって<わたし>を認識できるようになり、<わたし>も高さを持った<あなた>を認識できるようになるでしょう。
私たちは、自分自身の姿を直視してみることはできませんが、他者からであれば3次元立体である<あなた>を見ることができるようになります。そしてもちろん、他者であるあなたは、3次元立体である<わたし>を見ることができるようになるでしょう。
つまり、3次元立体である<あなた>見ることができている<わたし>の視点は、3次元よりひとつ高い次元にある4次元にあるということになります。
なぜかというと、3次元立体を見るということは、3次元よりもひとつ高い次元である4次元の世界からでないと俯瞰して見ることができないからです。
したがって、<わたし>は3次元立体ですが、4次元の視点を同時に持っているということになります。
また、ここで注意しなければならないのは、<わたし>という存在だけでは、<わたし>を認識できないということです。なぜかというと<わたし>は<わたし>を見ることができないため、<わたし>に似た<あなた>によって認識して貰わなければならないからです。
さらに、<わたし>が「高さ」を手に入れると同時に時間の計測もできるようになります。というのも<わたし>が高さを手に入れたため、平面にある線分や同じ3次元立体に存在する線分を「長さ」で計測できるようになるからです。
「時間」とは「長さ」を意味しています。
「長さ」は「距離」として「時間」に変換できることはもちろんのこと、遠くの星の輝きが過去の輝きであるように、過去から現在までの距離も「長さ」で計測できたりします。
そういった意味では、この世界は3次元立体であるからこそ「時間」が計測できるようになっていて、このことは3次元+時間という3次元時空で説明していることになり、これが物理学で言う3次元時空ということになります。
しかし、物理学には、見ている<わたし>の視点が存在していません。物を客観的に見るという意味では、<わたし>の視点は必要ないからです。しかしながら、3次元立体を認識し「長さ」を計測し「時間」を感じている<わたし>という存在は確実に存在しています。
そこで、<わたし>という観測者を次元の中に加えるのであれば、<わたし>は3次元時空を見ることができている4次元世界にいるということになるのです。
これが、私たちが4次元世界にいるということです。
こういった観点から、「ヌーソロジー」では、観察者の視点を次元を加えた4次元でものごとを見るようにしていたりしますが、私が「2013:人類が神を見る日」や「2013:シリウス革命」といった本を読んでいて、面白いなと思ったのは、こういった次元や時空についての疑問をスッキリできた点でもあります。
とはいえ、私たちは4次元の視点を持っていますが、この4次元の視点では自分自身の姿を自分の眼で見ることはできません。現状では、他者(人・動物・鏡などのもの)によって間接的に自分の姿を認識しているのが今の現状といっていいでしょう。
しかし、もし私たちがさらに上の次元の視点で世界を認識を認視できるようになると、私たちは自分の姿を自分の目で見ることができるようになるかもしれません。
「他者」とは何か
<わたし>は<あなた>を見ています。<あなた>は<わたし>を認識しています。私たちは他者を通じて自分という存在を認識できるようになっています。
なぜかというと、先述したように<わたし>は<わたし>を直視できないので、<あなた>によって<わたし>を認識して貰わなければ、<わたし>を認識できないのです。
もちろん、<あなた>も<わたし>がいることで、<あなた>という存在を認識できるようになっています。
これが私たちが存在している世界であり、4次元世界で暮らす意味といっていいでしょう。
だからこそ、私たちの世界では<自己>と<他者>の存在が大きなテーマであり、<自己>と<他者>によって、「喜び」や「苦しみ」が生れたりするのです。
そういった意味では、他者の姿を見ることができても、自分の姿を直視できない4次元世界に私たちが暮らす意味は、<自己>の周りにたくさんの<他者>を置くことで、自分を知るという行為をするための存在しているといっていいかもしれません。
見るという行為に潜んでいるもの
私たちは、私たちの身体の五感を通じて、様々な物事を観察し、判断しているといっていいでしょう。
つまり、<わたし>は<わたし>の身体がある場所が観察の位置となっています。また、私たちの生活は、自分の身体を使って観察したものをどうするか判断し行動を起こすということを繰り返しています。
そういった中でも、私たちの観察の多くは「見る」という行為によって行われていたりします。そして、この「見る」という行為は「ヌーソロジー」ではとても大きな意味を持っていたりするのです。
私たちが何かを見るということは、ひとつの対象に焦点を合わせるということになります。私たち人間は、魚のように一度に360°の方向を見渡すことができませんし、一度に二つのものを同時に見ることもできません。
そこで、もし、あなたが何も遮るもののない空を見上げて、ある一点を見た場合、その視線の先にあるものは(実際に見ることはできませんが)、宇宙の果てになります。
同様に、あなたが目を凝らして空を見ているということは(こちらも実際に見ることはできませんが)、目の前のミクロの世界を見ていることにもなります。つまり、私たちが「見る」という行為は、「無限大」を見ることでもあり「無限小」を見ることだったりします。
この「無限大」と「無限小」を見るということは「奥行き」を見るということになります。そして、この「奥行き」には、様々な意味が込められているのです。
たとえば、「遠く」を見るということは、「過去」を見るということになります。なぜかというと、私たちが夜空に輝く遠くの星の輝きを見たときに、その星の輝きは、過去のある時点で輝いていた光を見ていることになるからです。
また、私たちがある星の輝きを見るということは、過去の光を見ているということだけでなく、その光が過去からここまで届いているという「持続」を見ていることになります。
そういった意味では、私たちが何もない空を見上げるということは、この宇宙が始まってから今に至るまでの歴史を見ているということになります。
しかかも、<わたし>という存在は、この宇宙の様々な要素の組み合わせで出来ているので、私たちが空を見上げた遠くにある宇宙の果てには、<わたし>という原初の自分の過去が存在することになります。
実際に、現在の天文学ではビックバンが起こった当時の宇宙マイクロ波背景放射を見つけることができているため、私たちが見上げた空の先には、原初の宇宙(原初の自分)を見ることができるということになります。
また、私たちが見上げた空の先の一点には、必ず素粒子が存在していて、この宇宙を形作っている物質の最小単位を見ていることにもなります。
さらに、私たちの視線となる、「奥行き」は、遠くを見ても近くを見ても一つの点になってしまいます。下の図は、観測者が一つの黒い長い棒を見ている様子を客観的に表したものです。
この長い黒い棒は視線と同じ意味を持つと考えてもらえるといいでしょう。
今度は、この観察者の立場になって実際にこの黒い棒がどのように見えるかというとそれは、単なる一つの点になります。
つまり、私たちが何もない空を見上げて、遠くを見ても近くを見ても目の前にある線分は一点に集約されることになり、「見る」という行為は過去から現在に至るまでのすべての「持続」の一点を見ていることになるのです。
したがって、何もない空間を見つめた私の視点は、宇宙の果てを見ているということにもなるし、目の前の小さな点である素粒子の点を見ているということにもなります。
ヌーソロジーにおいて精神とは「対化を等化する力そのもの」を意味し、この「対化の等化」とは、「二元化したものを再び一元へと統合する」という意味があります。
私たちは「見る」という行為において無意識ではありますが、「無限小」と「無限大」を同時に見ることができていて、この「無限小」と「無限大」は一つの点に集約することができ、一元化することができています。
さらに、私たちの身の回りには様々なものが存在していますが、こういったもののすべてのものも「見る」という行為においては、ひとつの点を見ることになます。
そういった意識を持って、この世界を見渡したときに共通するものが見えてくるようになります。
ではその共通するものは何かというと、素粒子ということになります。その理由はというと、私たちの視線の先には必ず素粒子が存在するからです。
そして、この素粒子を見るということは、その素粒子に存在するこの宇宙が生まれた長い長い歴史を見ていることになるのです。なぜかというと、「奥行き」には過去の宇宙の歴史(持続)が含まれているからです。
もちろん、私たちの視力では素粒子を見ることもできないし、宇宙の果てを見ることはできません。しかし、私たちが何かを見るという行為においては、「過去から今」といったことや「無限大と無限小」といったことを無意識下で見ていることになり、私たちは絶えず何かを「見る」という行為の先に素粒子とその素粒子が生まれた背景を見ているということになります。
とはいえ、現在の段階では、こういったミクロやマクロの世界や過去から今という歴史の成り立ちを見ることはできません。
しかし、私たちの意識の次元を何かしらの形で上昇させることができるようになると、こういった潜在意識に沈んでしまっていて現状では見ることの出来ない世界を認知できるようになるかもしれません。
そういった意味でも4次元の視点以上の視点で物事を見ることができるようになると、私たちが認識できる世界も変わってくることになると思います。
*今回、ここに書いた内容は私の思考の飛躍が含まれている可能性もありますので、ぜひ、ヌーソロジーを詳しく知りたいと思う方は、実際に本を手に取られて読まれることをお勧めします。