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87) 近くを見て遠くをみると「氣づき」が生まれる。
以前、「氣づき」が自分の本質に還らせるという記事で、次のようなことを書いた。
子どもの頃、一人で行動できるようになって探検気分で、近所の使ったことのない道を歩き回っていたら、突然、普段使っているよく知った道に出くわすと「あ、ここに繋がっていたんだ」という気持ちになって嬉しくなった。
点と点が線で繋がったような感覚がして、不思議とスッキリ感があった。
そういったスッキリ感を味わいたくて、また路地の細い道に入って行って探検を繰り返す。
このことを、もう少し詳しく書いてみる。
たとえば、知らない道を歩いているとき、この道の先には何があるのか分からないから注意深くなることもあるし、ワクワクすることも出来る。
注意深くなったりワクワクするといことは、今に意識を置くことでもある。
しかし、突然、普段よく使っている大通りに行き当たり、「あ、ここに出るんだ」という氣づきを得ることができると視界が一気に開ける。
この視界が一気に開かれた瞬間は、「客観的視点を得た」ということがいえるだろう。
つまり、知らない道を歩いているときの注意深さは「氣づき」という「客観的視点」によって解放されて「安堵感」に変化していく。
また、知らない道を歩いているときのワクワク感は、「氣づき」という「客観的視点」を得ることによってさらに高まっていく。
こういった緊張感の開放やワクワク感の増大が、また新たな未知なる道を歩ませることになるといっていいだろう。
知らない道を歩いているときの視点は「近」である。
しかし、知っている道に出たという「氣づき」を得ることができると、視点は「遠」に変わるのだ。
「遠」を「俯瞰」といってもいいが、いずれにせよ頭の中の視点は「氣づき(客観的視点)」によって、突如と広がるといっていい。
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上の図の小さな円は近視眼的な視点だが、「氣づき」を得ることができたなら、視界が広がって遠視眼的・俯瞰的な視点を得ることができるようになる。
しかも、この遠視眼的・俯瞰的視点は、立体的視点でもあるため、いろんなことを総合することができる視点だ。
宇宙飛行士が、地上から離れ宇宙から地球を見たことで、それまでの考え方が一変するといわれている。
これは物事を俯瞰して見ることができるようになると、大きな視点で物事を把握できるようになると、それまでの考えが、いかにちっぽけだったかを知ることになるからだ。
そして、一度、大きな視点で物事を見ることができるようになると、もう小さな視点での考えができなくなっていく。
それは車の便利さを知った人が、車のない生活に戻れないということに似ている。
もちろん、車のない生活に戻ることはできるけど、その便利さは心のどこかに残っていることだろう。
いずれにせよ、一度、大きな視点で物事を見ることができるようになると、考え方は必ず変化するものである。
広い視野に立って物事を見ることができるようになると、全く関係ないようなことが実は背後で繋がっていたんんだ、という氣付きを得ることができる。
宇宙飛行士が遠くから地球を見たときに、それまで遠くに感じていた国が、近くの国のように思えるようになるり、人種も文化も全く異なる国と思っていた国が、実は違いは表面的なものでしかなく、本質は全く同じものだと氣づけるようになるものなのだ。
我々の日々の生活は近視眼的だ。
目の前のタスクをこなすことが、生活の課題になっているため、物の見方が近視眼的になってしまうのは当然のこと。
しかも、人は自分の姿を自分でみることができないから、客観的視点で自分を見ることは難しい。
それこそ幽体離脱でもしない限り、自分で自分の姿を見ることはできない。
しかし、何かしらのきっかけを得ることができると、自分を客観視できるようになり、俯瞰的に自分を見ることができるようになる。
そういった意味では、たまに自分を客観的・俯瞰的視点で見るようにするといい。
なぜかというと、自分を客観的・俯瞰的視点で見ることができるようになると氣づきが生まれるからだ。
画家が大きなキャンバスで絵を描いているとき、その眼差しは筆先という小さな点を見ている。
しかし、小さな点だけを見ていると、全体像のバランスを取ることができないため、一度、絵全体が見えるところまで下がって絵を俯瞰する。
画家は、この近景と遠景の両方を見ながら一枚の絵を仕上げていく。
そして近景と遠景の両方に満足できたとき、絵は完成される。
近景だけが上手くいっても遠景に満足できなければ、その絵に満足することはないだろう。
近景と遠景が足並みを揃えることで、絵は完成される。
我々も大きなキャンバスで絵を描く画家のように、あるいは宇宙から地球を見る宇宙飛行士のように、近くと遠くの両方を眺める力が必要とされる。
今を生きる力と今を俯瞰する力を持てるようになってはじめて、フラットな視点で自分を見ることができるようになる。
では、どうやって自分を俯瞰すればいいかというと、焦点を一点に合わせるのではなく焦点を合わせない作業をすればいい。
もっと分かりやすくいえば、焦点を自分に合わせないようにすればいい、ということ。
無になってぼんやりすることで自分から離れる。
不思議なもので、自分から離れることができると、そこに氣づきが生まれるてくるものだ。
見晴らしのいい山頂で、ぼんやりと眼下の景色を眺めていると、ふと何かに氣づく。
「空が青いな」とか「あそこに入道雲があるな」とか「遠くに新宿のビル群があるな」とか。
そういった感じで、ぼーっと無になっていると、自然と何かが思い浮かんでくるものだ。
ぼーっとすると、閉じていた意識の蓋を解放できるようになるから、それまで閉じ込めていた思いが浮かんでくるものであり、そういった思いのいくつかが組み合わさって「氣づき」がやってくる。
しかも、「いまここ」という近景をしっかり生きて満足し、ある種の緊張感から解放されてゆっくりしていると、思わぬ「氣づき」が生まれやすくなるもの。
こういった緊張と緩和を繰り返しているだけで、近景と遠景の両方を見ることも可能になっていく。
一日を満足して終え充分な睡眠を摂ることができると、朝、ふと気づきが生まれるように、緩急の取れた生活をしているだけで「氣づき」を得やすくなる。
「氣づき」には、必ずスッキリ感が生まれるものであり、こうった生活を送ることができるようになると、毎日が「氣づき」の連続になっていき、スッキリ感が強まっていく。
そのためにも、近景として自分が楽しめることをして「いまここ」に生き、リラックスする時間を十分に持って生活できるようになると、人は日々成長していくことになるだろう。
幸せは充足感で得ることで体感できる。
幸せは、楽しい緊張と心地よい緩和によって完成される。
「氣づき」が解放感を生み、人の視野を広げる力になる。
緩急によって、「いまここ」という近景を生きることができ、「いまここ」という遠景を生きることも可能になる。
メリハリのある緩急の生活を過ごすことができれば「氣づき」が生まれ、毎日が楽しくなる。
毎日が楽しくなると、生きることが楽しくなっていき、いい循環の中で生活できるようになっていく。
「氣づき」が僕らの成長を加速させてくれるのだ。
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