幸せは、自分を忘れたときに生まれ出る
人は、どんな瞬間でも夢中になって生きたいのだと思う。
無我、無心、夢中、これらの言葉に共通するのは、自分をなくすということだ。
我と心は、同じ意味と考えることができ自我と言い換えることができるだろう。
自我が消える瞬間に心地よさを感じるのは、自他の境界が消えてなくなるから。
何かを食べておいしいと感じるのは、自我が消え自分とその食べ物がひとつになるから。
暑さの中で風を心地よいと感じる瞬間、風と自分がひとつになって自我が消える。
本を夢中になって読んでいるとき、その内容と自分がひとつになっている。
夢の中にいる心地よさは、睡眠によって自我から一時的に離れられるから。
何かに夢中になっている瞬間、自我が消えてその対象とひとつになる。
愛は、自分と他者との境界が消えて、ひとつになることで感じられる心地よさであり、静寂は自分と周囲がひとつになることで感じられる心地よさだ。
我々は、こういった自我が消える瞬間を求めて生きている。
自我を消すには、自分の好きなことと向き合うのが手っ取り早い。
好きなことと向き合えば自我を消すこと容易にでき、その対象とひとつになれる。
そして、何かに夢中になって自我を消すことができると、思いもよらぬアイデアが浮かび上がってくる。
これは自我という境界をなくすことで起こる現象であり、それが気づきとなって現れる。
こういった気づきを得る瞬間に、人は喜びを感じるようになるものだし、それが幸せの源泉となることだろう。
人は、自分の好きなこと夢中になれることを求めて生きている。
自我を消すには、自分の思いと行為を一致させればいい。
自分の思いと行為を一致させれば、どんなことでも夢中になることができる。
しかし、今の社会は、何かに夢中になって生きていくことが難しい社会である。
何かに夢中になれないからこそ、人はストレスを感じるのだと思う。
自分が望んでいないことをすればするほどストレスは過多となる。
思いと行為の不一致がストレスを生む。
ストレスを減らして生活するには、自分の思いと一致することを選択して行動するか、夢中になれないことでも夢中になれるよう考え方を変えるしかないだろう。
いずれにせよ、自分の思いと行為を一致させていないと、人は喜びや幸せを感じて生きていけないのではないかと思う。
精神と行為が一致したとき、自我という境界が消え「私」と「行為」がひとつになる。
私と行為がひとつになるとき、自我が消滅し、無我、無心、夢中となり、自我を超えた能力を引き出せるようになる。
「こうしたい」「これをしたい」「こうなりたい」という意思を持って何かをすれば、夢中になれる時間を過ごせるようになるだけでなく、自分の可能性を拡大できる。
自分の可能性が拡大していけばいくほど、人は幸せを実感することだろう。
自分の思いと行為を一致させるということは、「いまここ」を生きるということでもある。
「いまここ」とは、今という瞬間に夢中になって生きることであり、今という瞬間に自我を消すことでもある。
しかも、自我という壁が消えた瞬間、目には見えない大いなる力とひとつになることができ、思いもよらないパワーを発揮できるようになる。
人は「いまここ」に生きるとき、最大限の能力を発揮する。
幸せは、忘我にある。
我を忘れ、この上ない心地よさを感じるとき、人は大いなる力とひとつになれる。
「いまここ」に、夢中になって大いなる力を味方にする人が増えていけば、今の世の中の仕組みに変化が起こることだろう。