第64回:「喜び」が自然の生き方
今回は、「喜び」で生きるのが人として自然の生き方であり、子どものようなワクワクした気持ちで生きていると、やがて自分の人生ですべきことが分かるようになり、使命を果たして生きていけるようになるということを書いていきます。
人は、年齢を重ね大人になるにつれて、自分の楽しみよりもルールや規範を守って生きることを重視するようになっていきます。こういったルールや規範を守っていくことは、集団で生きる社会人にとっては必要な意識といっていいでしょう。
とはいえ、ルールや規範ばかりに意識を置いてしまうと、自分自身に制限を加えてしまうことになってしまうため、「喜び」のある生活ができなくなってしまいます。
そこで、普段から少しでも多く「喜び」の意識を取り込んでいきながら、意図して「喜び中心」の生活をしていけるようにしていくと、大人でも子どこの頃のようなワクワクした気分で生きていけるようになっていきます。
人間の意識構造
心理学者のフロイトは、人間の意識構造を「自我」「エス」「超自我」の3つに分けています。
①自我‥‥‥「わたし」という感覚、他人と区別できる自分
②エス‥‥‥本能的な欲求や生理的衝動
③超自我‥‥ルール、道徳観、倫理感、良心、禁止、理想
この「自我」「エス」「超自我」を簡単な図にすると、次のようになります。
ちなみに、この図の中ほどにある「前意識」とは、「いつもは意識されていないものの、集中すれば意識化できる精神の領域」ということで、たとえば、「記憶をたどれば思い出すことが出来る」というような意識と無意識の中間的な意識になります。
この図を見てわかるように、「私」という生命は「エス」という本能的な欲求が基盤となっていて、この「エス」の上に「自我」が形成され、その「自我」の上に「超自我」が形成されています。
また、私たちが普段、認識できている意識は「自我」と「超自我」であり、「超自我」は、「自我」を管理する「社会的意識」となります。
したがって、私たちの「自我」は無意識の「エス」から浮かび上がってくる欲求と社会的意識である「超自我」の間で、バランスを取っているといえます。
しかしながら、人の意識の中の「社会的意識」である「超自我」占める割合が大きくなってしまうと、人間の本能的な「欲求」である「エス」が抑圧されてしまうため、生活そのものが息苦しいものになってしまいます。
その一方で、人は「エス」から浮かび上がってくる「欲求」をその都度、満たしていくことができるようになると、「超自我」が次第に緩んでいき、リラックスした生活ができるようになっていきます。
「喜び」で生きると「超自我」が緩んでいく
生れたばかりの子どもは、「エス」そのものであり「自我」がありません。しかし、年齢を重ねるにつれて「自我意識」が芽生え始め、自分と他者を区別するようになっていきます。
人の「超自我」は、保育園や幼稚園、小学校といった集団で生活をしていく中で自然と身に付いていくものであり、年齢を重ね進学したり就職していくごとに「超自我」が大きくなっていきます。
特に、就職して会社のような組織の中で生活するようになると、学生の頃よりも自由度が少なくなり、より制限が多くなっていくため、知らず知らずのうちに「超自我」の占める割合が大きくなっていきます。
また、「超自我」は、環境によって身に付くものであるため、たとえば、規則の多い環境に身を置くと「超自我」が大きくなっていく反面、規則の少ない環境に身を置くと「超自我」が必要とされないため、比較的リラックスした状態で過ごせるようになるといえます。
幼い子供が、いつもニコニコしているのは生活の中に、規則が少ないからであり「超自我」を使う場面が少ないからです。
その一方で、大人になると集団生活で過ごす時間も多くなると、それにともなって規則も増え複雑化していくため「超自我」の意識を使う頻度が高くなり、表情から笑顔が減っていったりするものです。
「超自我」を「喜び」で緩ませていく
人は、いつでもどこでもどんなときでも「喜び」を感じていたいし、「心地よく」過ごしていたいと思って生きているものです。
こういったことから、私は人間の欲求の根源はすべて「喜び」にあると考えています。
アメリカの心理学者のマズローは、5段階ある欲求を満たしていくことで人間としての成長を果たしていくという「5段階欲求説」を唱えていています。
この5段階欲求説は「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」といった5つの欲求から成り立っていて、下位の欲求である「生理的欲求」から上位の欲求である「自己実現欲求」を満たしていいきながら人は成長していくというものです。
この5段階欲求説の視点で見るならば、「生理的欲求」「安全欲求」は無意識的な欲求である「エス」に近いものであり、「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」は「自我」が持つ欲求といっていいでしょう。
しかし、人は有意識、無意識関係なく、どんなときでも「喜び」を感じて生きていたいものだし、「生理的欲求」も「自己実現欲求」もすべて満たしたいと思って生きているものです。
そういった意味でも、自分の中から湧き上がってくるどんな「喜び」も、可能な限り満たさりていくことが、人生を豊かに楽しくさせていく方法だと思います。
しかし、私たちは成長していくにつれて「超自我」の意識が強くなっていくため、「喜び」を満たすという行為を減らしていってしまい、気がつくと、「喜び」の少ない人生を歩んでしまい、生きることが楽しくなくなっていってしまったりします。
そこで、大人になるにつれて肥大していった「超自我」を緩ませる方法が、その内容の大小を問わず自分の欲求を満たしていくことであり、意識して「喜び」を味わっていけるようになると、「超自我」を緩ませていけるようになり、子どものようなワクワクした気持ちで日常を過ごせるようになっていきます。
「喜び」が人生のすべて
人間の欲求の本質が「喜び」にあると認識し、「喜び」を生活の基準において生きていけるようになると、子どものようにリラックスして生きていけるようになります。
また、子どもは「何かになる」、「何かを達成する」といような目的設定をすることもなく、今という瞬間を心から楽しんでいたりします。
実は、この「今を楽しむこと」こどが「喜び」の本質であり、「何かになる」、「何かを達成する」ということは二次的なものだったりします。
というのも、「何かになる」「何かを達成する」という意識は大人の認識であり、こういった認識は「超自我」から生まれてくる認識でもあるため、「楽しむ」という本質を曖昧にさせてしまったりします。
たとえば、何かを夢中になって楽しむことができたとしても、目的設定があったりすると、その仕上がりに善し悪しをつけてしまうことになり、そういった善し悪しの判断が、心から楽しむという力を奪ってしまったりします。
つまり、心から何かを楽しもうとするなら、結果を手放さなければならないのです。
たとえばラーメンを食べて美味しさを感じたからといって、何かになるわけではありません。ゲームのステージをクリアしたから何かになるわけではありません。ただ、その時々の欲求を満たすことで「喜び」を感じることができるようになるものです。
こういった今を楽しむということが「喜び」の本質といっていいでしょう。
もちろん、マズローが語るように、人の欲求の中に「自己実現欲求」も存在します。しかし、そういった「自己実現欲求」は全体の欲求の中では一部でしかなく、「自己実現欲求」以外の欲求も満たしていくことも大切なことだったりします。
人は「自己実現欲求」を過剰に求めすぎてしまうと、「超自我」の意識が強くなりすぎてしまい、結果重視になってしまって、それまで楽しんでできていたことも、やがて楽しめなくなってしまったりします。
こういったことから、本当に何かを楽しもうとするならば、「超自我」が働きやすい「自己実現欲求」を切り離す必要があり、シンプルに今を楽しんでいた方が、本質的な「喜び」を味わえるようになったりするものなのです。
そして、子どものような気持ちになって、「今の今」を楽しめるようになると、「超自我」が緩んでいき、人生そのものを楽しんで生きていけるようになったりします。
「喜び」で生きていると、自然と何かになっている
では、無目的に「喜び」で生きているだけで「生活が成り立つのか?」といった思いが生まれてきたりします。
実は、私は、これまでこういった思いとずっと格闘しながら生きてきました。
しかし、今では、素直な気持ちで「喜び」で生きているだけで、自然と「何とかなってしまう」し、いずれ「何かになってしまう」と思って生きています。
では、その根拠が何なのかというと、「心から楽しんでいること」や「心から楽しんで出来ていること」が、その人の人生の使命になるということだからです。
人は「楽しんで出来ること」をするために生まれてきたといっていいでしょう。そして、その「楽しんで出来ること」をすることが、その人の人生の使命なのです。
なぜなら、私たちは「楽しむ」という経験をするために存在しているからです。
むしろ、楽しくないことを無理にして生きていることの方が、生き方として歪みがあるといっていいでしょう。
そういった意味でも、普段から子どものようなワクワクした気持ちで生きていけるようになると、自分の使命を果たしながら「喜び」で生きていくことができるようになるものです。
こういったことが、「喜び」で生きるのが人として自然の生き方ということです。