ホキ美術館と香取神宮を巡る
昨日は、友人の車で千葉県のホキ美術館と香取神宮を訪れた。
ホキ美術館は、2010年11月3日に写実絵画作品を展示する美術館として創立されていて、NHKの日曜美術館という番組でその存在を知り、いつかは行ってみたいと思っていた所でもある。
絵を描いている友人に、ホキ美術館に訪れた回数を訪ねると数えきれないといっていた。
ホキ美術品の収蔵作品のほとんどが写実絵画であり、ひとつ一つの絵は、人や物が、まさにそこに「いるかのよう」「あるかのよう」描かれていて、なおかつ、それらが本物以上に「なまめかしさ」を感じさせるものばかりだった。
館内の写真撮影は当然NG。
そこで印象に残った絵のポストカード2枚を購入した。
こちらは生島浩さんという方が書かれた「5:55」という作品で、友人曰く、ホキ美術館の代表作の一つといわれている作品。
生島さんは、フェルメールを模写をすることで、写実の技術を身に付けたそう。
ちなみに、この絵のタイトルの「5:55」とは、この女性の方が夕方の6時までしかモデルができないという理由からで、絵の中の時計の針が5時55分を指している。
上の写真はポストカードを僕が写真で撮ったものであるため、時計はよく写っていないが、実際には5時55分が精妙に描かれている。
この絵は、何時間でも見ていたいと思える作品で、ただ見ているだけでいろんな思いが自然と込み上がってきた。
こちらは原雅之さんの「冬のアンジェリカ」という作品。
ホキ美術館の風景画の中では、僕は原さんの作品が特に印象に残った。
原さんももちろんそうだけど、他の方の作品も細部にわたって、まさに本物のように描かれていて、例えば葉の葉脈みたいなところまで精妙で、引いて観てその美しさに驚き、近くに寄ってみてその美しさに驚くという体験ができて面白かった。
しかも、人物画も風景画も単にリアルに描いてあるというだけでなく、作者一人ひとりの個性が、それぞれに出ているのも面白かった。
美術鑑賞というと、例えば、ピカソのように「なんかすごいけど理解できないな」ということが多々あるけど、写実の作品は理解できるかどうかではなく、理解を超えて美しいと思える点が面白さなのだと思った。
また、こういった写実の美の精妙さは日本人が得意なジャンルなのではないかと思ったりもした。
髪の毛の一本一本、肌の質感、服のシワや陰影を見た目以上に美しく描き上げるその技術の凄さは、見ている人の誰もが感じることだと思う。
美術館で「また来たいな」と思うところは少ないけれど、ホキ美術館は「通いたいな」と思わせられる美術館だった。
ホキ美術館を出て昼食にラーメンを食べて、午後3時半ごろ香取神宮に到着した。
昨日は、美術館巡りをする予定だったけど、前回友人と埼玉県の三峯神社に行った流れもあり、今回は香取神宮に行くことに。
香取神宮の社は重厚感があり、この拝殿を見ているだけで厳かな気分なる。
昨日はあいにくの曇り空だったが、晴れた日に写真を撮ればもっと美しいのではないかと思った。
拝殿で参拝を終えたのは午後4頃だったが、参拝に訪れる人は後を絶えなかった。
日本列島の東端に位置する香取神宮と利根川を挟んだ向かい側にある鹿嶋神宮には、ともに「要石」があり、日本の地震を鎮めてくれている。
こちらは、拝殿から、歩いて4、5分くらいのところにある香取神宮の奥宮。
要石もこの奥宮の近くにある。
拝殿やその周りを散策して、夕方5時頃、香取神宮を後にする。
帰途に就く前に、トイレによって手を洗っているときに、ふと理由もなく「豊かさを感じないといけないな」と思った。
どういうことかというと、普段、当たり前のようにしていることや、出来ていることは、豊かさの現れということ。
そんな思いがよぎった。
友人の車で美術館に行ったり、神社に行くということは、当たり前のようにできていることだが、その背後にはたくさんの豊かさが存在している。
車があり整った道があるということも、昼食にラーメンを食べることができ、そのラーメン店を検索して見つけることができるということも豊かさの現れであり、美術館という現代の文化と神社という古代から引き継がれている文化を同時に味わえることも、様々な豊かさが累積しているからこそできること。
そういった豊かさは、当たり前過ぎて気に留めることもなかったりするけれど、実は、我々は「豊かさ」という高度な文明社会の中に存在しているということでもある。
きっと、昨日は、そういったことを感じるための一日だったのかもしれない。
といったわけで、昨日の出来事を思い出しながら記事に書くことで、普段忘れがちな「豊かさ」を改めて認識することができた。
たまに日常の世界から離れて、別の視点で世の中を見て見ると新たな気づきを得られたりする。
旅は自分の視野を広げてくれるものなのかもしれない。
人は、視野を広げることができると徐々に善し悪しで判断する力が弱まっていくものであり、物事を「中庸」で観られるようになっていく。
そういった意味でも、たまに非日常を味わうことも大切なのかもしれないと思った。
美術館や神社には「静けさ」があるから、こういったことを気づかせてくれたのかもしれない。