歴史の教訓について考える
昔から歴史が苦手です。
受験勉強の一環で、日本史・世界史はひととおり勉強したのですが、ほぼ丸暗記に終始してしまったようで、大学に入ってしばらくすると、ほとんど何も身についていないことに気がつきました。
その後、現在に至るまで苦手意識は一貫して続いています。
日本史では特に近現代史、世界史に至っては西洋史全般がダメ。
在職中、飲み会の席などで同僚たちが歴史の話をし始めると、自分の無知・無教養がさらけ出されるような気がして、ずいぶん肩身の狭い思いをしたものです。
五、六年前に半藤一利(1930-2021)の名著『昭和史 1926-1945』及び『昭和史 戦後篇 1945-1989』(ともに平凡社ライブラリー)を買ってみたのも、そんな無教養を少しでも穴埋めしたいという思惑からでした。
こちらは読みやすさもあって、上巻の『1926-1945』を興味深く読み切ったのですが、下巻の『戦後篇』はそのまま放置していました。その後、上巻の内容も、(例のごとく)きれいに忘れてしまいました。
毎年、8月になると、戦争に想いを馳せる機会が多くなります。それでなくても、今年は、2月にヨーロッパで始まった戦争がずるずると半年にわたり続いています。
昭和戦前期の世相を背景とした『細雪』を読んだこともあり、あらためて過去の歴史から「戦争」というものを考えてみたくなり、『昭和史 1926-1945』を最初から読み始めました。
読みながら、考えました。
読書を通じて学んだ歴史上の事件やできごとを、読者が自分自身の素養なり教訓として身につけるには、どうすればよいのか?
そのためには、読んだ内容、つまりインプットされた情報を、咀嚼し、消化したうえで、そこから自分なりの考察・思索を導き出し、エッセイでも感想文でも、なんでもいいですが、文章の形で表現する、すなわちアウトプットする、という一連の作業が有効なのではないか。
あるいは、直接語りかける相手がいるのであれば、文章ではなく、会話でもいいのかもしれませんが、言葉を定着させ、反芻可能にする意味で、やはり文章が望ましいように思います。
それによって、歴史が読み手に刻み付けられ、読み手自身の中になんらかの痕跡をとどめるのではないか。そんな風に考えました。
そんな試みとして、あらためて読み始めた『昭和史 1926-1945』から、感銘を受けたひとつのエピソードを、この場で紹介しようと思います。
昭和の初め、関東軍の陰謀による張作霖爆殺事件(昭和3年)、同じく関東軍の独断専行によって開始された満州事変(昭和6年)、さらには上海事変の停戦協定に対する海軍士官らの不満に端を発した五・一五事件(昭和7年)等をつうじて、軍の発言力が次第に強まり、マスコミの報道も国民の好戦的気分をあおる論調が優勢となって、軍部の専横・暴走に歯止めが利かなくなっていきます。
そのような風潮の中で、警察が軍の横暴に敢然と立ち向かった事件がありました。
昭和8年6月に大阪で起きた、いわゆる「ゴーストップ事件」です。
当時、大阪の中心市街に初めて信号機が導入されたらしいのですが、あるとき陸軍兵卒が赤信号を無視して交差点を突っ切りました。それを見とがめた大阪府の交通巡査が呼び止めて注意したところ、「一介の巡査ふぜいが皇軍の軍人に対して何を言うか」と逆切れされて、殴り合いの喧嘩になってしまったそうです。
もともと組織の末端どうしの間で起こったいさかいに過ぎなかったのですが、これがその場で収まらず、どんどんエスカレートして「陸軍対大阪府警察部の大喧嘩」に発展してしまいます。
以下は、大阪府警察部長の粟屋仙吉、陸軍第四師団参謀長の井関隆昌のそれぞれの言い分。
粟屋の言い分はもっともです。しかし陸軍側は、「統帥権」や「皇軍」意識を振りかざし、自分たちはあくまで天皇の軍隊であって、国民の命令に従う義務はないと反論します。
この問題は、ついに東京の中央政界にまで波及して、陸軍省と内務省の対立にまで発展、陸軍大臣の荒木貞夫大将も山本達夫内務大臣も互いに譲らず、どうにも収拾がつかなくなってしまいます。それをまた新聞が面白がって、連日のように書き立てたようです。
そんな折、天皇陛下が福井県で行われた陸軍の大演習に参加し、随行した荒木陸相にひと言、「そういえば大阪の事件はいったいどうなっているのか」。
荒木陸相は、ハハ―ッ、至急善処します、と平身低頭かしこまり、陸軍省に戻ってくるや「わが皇軍が陛下にご心配をおかけするとは何事であるか!」と豹変し、大阪第四師団長に電話で「ただちに解決せよ」と怒鳴りつけた、とか。
第四師団長はあわてて大阪府知事と相談し、打開策を探りますが、陸軍・大阪府ともに上層部は振り上げた拳を下ろしあぐね、「面倒くさいから一番下まで下ろしてしまえ」というわけで、当事者の陸軍一等兵と交通巡査に仲直りの握手をさせて、それを写真にとって新聞に載せ、一件落着となりました。
このエピソードを、半藤は次のように結んでいます。
この事件から、どのような考察・教訓を引き出すことができるでしょうか?
まず、歴史上の事件が、いかにささいな、つまらない(といっては失礼ですが)発端から発展しうるものか、という教訓があるように思います。
自分の職務に忠実であろうとした警官と所属する組織の誇りを守ろうとした軍人との間の小さないさかいが、やがて政治の中枢まで波及し、世論を二分する大問題に発展して、最終的に天皇が口を出すまで収束させることができなかった。
結末に見られるように、この事件は、結局、天皇陛下にやんわりと注意された陸軍側が非を認め、一件落着したのですが、面子や体面にこだわり、振りあげてしまった拳を頑固に下ろそうとしない、そんな人間の愚かさは、時として大いなる破局をもたらしかねません。
実際にそんな不幸な事態が、現在の世界でも生じています。
ふたつめとして、戦前までの天皇の権威、影響力がいかに巨大なものであったか、ということがよく分かります。
「断固として大阪府警察部を謝らせる」と息巻いていた荒木陸相も、天皇のひとことでフニャフニャと折れてしまった。半藤はそのように描写しています。
昭和史の前半において、軍部、すなわち「皇軍」は、この天皇の大きな権威を都合よく利用し、その名を前面に押し出して、無謀な戦争に突入していきます。
その結果、多くの若者が、「天皇陛下万歳」を叫びながら、勝つ見込みのまったくない戦闘に、ただ「死ぬだけのために」突撃していきました。
「偶像」というものを作り上げ、それを祀り上げることの、危うさと恐ろしさを、ここに見てとれるように思います。
今でも、権威主義国家と呼ばれる国々には、そのような状況がみられるようです。
最後に、私がもっとも心を動かされたのは、粟屋警察部長の運命の理不尽さでした。
誠実に自分の信念を貫いた生き方の潔さ・見事さ、その対極にある被爆死という無残な最期!
このむごいばかりの生と死の非対称から、いったい何を教訓として引き出すことができるでしょうか?
人間の運命というものは、人知をはるか超えている、とつくづく感じます。
粟谷市長がどのように亡くなったのか、私は知りません。
熱線を浴びて致命的な火傷を負ったか、爆風に吹き飛ばされたか、あるいは放射能に侵されたか。原爆投下の当日に亡くなっていますので、いちばん目かにばん目でしょうか?
広島市のホームページによれば、正確な原爆被爆死者数は現在でも分かっていません。被曝直前の人口状況を示す資料が原爆で焼失してしまったことが主な理由とされています。
推定では、爆心から半径1.2キロの範囲内では、人口のほぼ50%がその日のうちに亡くなったとされ、広島市は、昭和20年末までの死没者数を約14万人と推計しています。
何万という人が、抗い難い大きな力によって、虫けらのように、一瞬で叩きつぶされました。
もちろん、交通事故であったり、自然災害であったり、あるいは通り魔殺人であったり、不慮の「死」は、いつどこからやって来るか分かりません。
しかし、せめて「戦争」という組織的で大規模な蛮行さえなくなれば、世界中で、そのような不幸に見舞われる人々が激減することだけは間違いありません。
そのことこそ、歴史が物語る最も大きな教訓と言えるように思います。
現在進行中の戦争を一日も早く終わらせるために、世界中の叡智が結集することを祈ります。
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