加賀乙彦『宣告』を読み終えて
『宣告』(新潮文庫)の下巻をようやく読了した。
小説の主人公である死刑囚楠本他家雄の運命はすでに最初から決まっていた。
全七章のうち第五章の途中から最終章までを収める下巻は、そのようなあらかじめ決定済みの結末に向って急展開で進んで行った。
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「他家雄がどのように「死」という結末を迎えるのか、果たしてそこにひとすじの光を見いだすことが出来るのか否か、それをしかと見届たいと思う。」
前回の投稿でそのように記した。
その問いに向き合ううえで圧倒的に重い意味を持つのが第六章だった。
同章は、他家雄が一年近くにわたり獄中から書き送った手紙で埋め尽くされている。
他家雄の文通相手で、犯罪心理学を学ぶ女子学生の玉置恵津子への手紙である。
長い手紙もあれば、短い手紙もあるが、一行アキを手紙の切れ目として数えてみると五十通弱、ページ数にして百ページを超える手紙が、一切の注釈なしに時系列に連なる。
二十歳近くも年下の恵津子に向って綴られたそれらの手紙は、面はゆいほど率直で、時には甘え、媚びるような、時には年長者として教え諭すような、いずれにせよ無防備なまでに無邪気であり、相手に全幅の信頼を寄せている様子が読みとれる。
たとえば、こんな調子だ。
他家雄は年若い恵津子に恋をしていた。
もちろん、それは実らぬ恋である。実らないどころか、始まることすらない恋であり、だからこそ決して終わらない、永遠の恋であったのかもしれない。
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前回の投稿でも書いたが、他家雄の手記(第三章)に描かれた犯罪者である他家雄の自画像と、拘置所内で一見穏やかな日々を送る他家雄との間には明らかな「断絶」がある。
果たして他家雄は「悪」を脱却したのだろうか?
死刑の宣告によって、あるいはカトリックへの入信によって、生まれかわるように他家雄という人間の本質が変わったのだろうか?
興味深いエピソードが描かれている。
拘置所内でにわかに鼠が大繁殖したとき、受刑者一人ひとりに鼠捕り籠が配られ、捕えた鼠は洗面台で水に漬けて殺したうえで毎朝看守に差し出すように命じられた。
他家雄にとっては房内への鼠の出現はむしろ慰めであり、餌をやったり、糞を片付けてやることすら楽しみであったのだが、官の命令には逆らえず、罠を仕掛けざるを得なかった。
ところが、捕えた鼠を水に漬けたとき、他家雄を襲った感情は紛れもない「喜び」だった。彼は一日一匹ずつ、五日間で五匹の鼠を殺す。
他家雄の本質に潜む「悪」は決して消えてなくなったわけではない。
だが、心に「悪」あるいは「狂気」を抱えるのは他家雄のような犯罪者だけだろうか。
むしろ人間というものは、そもそもそういう存在なのではないか。
作者の眼差しはそうした人間の本性を見つめているように思われる。
犯罪者の「弱さ」を厳しく糾弾する若い女性看守と論争する中で、拘置所の医官を務める精神科医の近木(作者の分身と思われる)は、次のように言う。
ここで「存在の一部を狂気や犯罪に染められた」という修飾語は「人間」を狭く限定する意味で用いられているのではなく、人間の普遍的な本質を言い当てるものとして用いられている、ように読める。
悪や狂気といった「闇」は依然として他家雄の本質の中に存在する。
だが、そのような「闇」はわたしたち「ふつうの人間」にも潜在的に存在する。
ある人々はたまたまその「闇」を顕現させてしまうのに対して、別の大多数の人々はそれを心の奥底にそっと潜ませ、その存在に気づくことすらなく生きている。それだけの違いなのだ。
他家雄が拘置所で「生まれかわった」というのは、いったん顕現させてしまった闇を「封じ込めた」ことを意味するのであって、通常それを指して「更生」と呼ぶのだろう。
しかし、そもそも「更生」が社会復帰を目的とするものであるとすれば、死刑囚の「更生」に何の意味があるというのか?
実際に、作中に描かれるある死刑囚は、最後の最後まで更生などとは無縁に「犯罪者らしく」刑死する(殺される)。またある死刑囚は、刑の執行を待ち続けることに耐えられず自ら命を絶つ。
もし他家雄が拘置所内で生まれかわり、「更生」し得たのだとすれば、なにがそれを可能としたのだろうか?
*
他家雄の「回心」の契機となったものは、カトリックの受洗であったのかもしれない。
いや、おそらくそうなのだろう。
であるとすれば、他家雄は宗教によって真に救われたのだろうか?
もちろん、キリストの教えにすがり、真摯に祈りを捧げることは、他家雄にとって、死の恐怖を和らげるために大いに意味があったに違いない。
しかし、わたしは「信仰が他家雄を救った」とは言い切れないように思うのだ。
これは個人的な、狭い解釈に過ぎないのかもしれないが、他家雄を絶望から救いだしたものは、結局「神」ではなく「人」ではなかったか、と思うのだ。
「人」つまり「他者」、具体的には、ショーム神父であり、母であり、そして恵津子である。
怒りや恨みや絶望などを介して、人間の狂気や犯罪を否応なく引き出す存在が他者であるとすれば、そのような犯罪の報いとして死刑囚となった者に束の間の喜びや幸福をもたらす存在も、また他者にほかならないのだ。
もう一通、恵津子への手紙を引用したい。
他家雄が刑の執行を宣告される直前に書いた手紙の一節だ。
獄中の他家雄の最晩年の日々は、恵津子への愛によって力強く支えられていたのだ。
おそらく、他家雄を救ったものは、自分自身が死んで消えてしまったとしても、自分が「生きた」という証が「他者」の中で生き続けるという想いだったのではないだろうか。
ショーム神父が死んだ後も他家雄の中で生き続けたように、誰かの中で、とりわけ恵津子の心の中で、他家雄が残した「言葉」とともに……
その想いがあるからこそ、他家雄は、親しかった隣房の死刑囚の垣内が表現したように、殺されるのではなく「死を迎え撃つ」ことができたのではないか。
*
他家雄の苦悩と救済が、死刑囚の絶望と希望が、理解できたなどとわたしは到底思わない。
しかし、わたしはこの小説を読んでよかったと、心から思っている。
なぜなら、人為的に確実にもたらされる「死」をあらかじめ定められていないということが、そうした不条理によって突然断ち切られる不安のない日々を生きるということが、どれほど貴く、有難いことであるか、身に染みて感じることができたからだ。
それは、われわれがふだん意識するまでもない「ふつう」のことであるが、死刑囚にとっては「無限の自由」に等しい至福なのだ。
※タイトル画像は本田しずまるさんから拝借しました。ありがとうございました。
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